下剋上の極悪人 松永久秀
後世、゛下剋上の三極悪人゛の筆頭に挙げられるのが、松永弾正少弼久秀であった。
あるとき久秀が従属していた織田信長に拝謁していると、徳川家康が挨拶にやってきた。
信長が家康に、久秀を指して言った。
「三河どの、この老人が松永弾正でござるよ。心の許せぬ奴じゃが、この男、他人のまねのできぬことを三つまでやってのけた。一つは、主家の三好家を滅亡させたこと。二つは、十三代将軍・足利義輝を弑逆(しいぎゃく→主君や父親を殺すこと)したこと。三つには、奈良の大仏殿を焼き払ったこと。普通の者には、
この一つでもできまいに、三つともやってのけたのがこの老人でござるよ」
さしもの久秀も、赤面して顔を伏せたという。
畿内を制圧していた三好長慶の、最有力家臣として久秀は、京都、堺を束ねる役割を担って現れ、永禄三年(1560年)には、大和一国(現・奈良県)を独力で平定。河内境の信貴山(現・奈良県生駒郡平群町)に城郭を築き、ほどなく
奈良北郊の多聞山城へ移ったが、この多聞山城は、近世城郭建築の先駆けとなった。
久秀は三都市を手中にし、主君・三好長慶が死去するや、三好家の実権を握る。彼は主家の三好を継いだ吉継を京都から追い落とし、英邁ゆえに邪魔者の将軍・義輝を亡き者にした。以後、京畿は久秀の天下となったが、先の見えるこの男は、信長が十五代将軍候補の足利義昭を奉じて入京する直前、信長と会談し、その幕下に入った。
義昭は、信長に久秀を殺すことを求めたが、信長が自らが盾となって、守っている。
久秀は信長のため、畿内の反信長勢力を駆逐するなど、おおいに働いていた。
しかし、元亀二年(1571年)五月に武田信玄が上洛戦を敢行すると、久秀はこれまでの信長への忠誠を、信玄上洛後の己れの利益と天秤に掛けてしまう。久秀は得意の計算をして、突然、信長に叛旗を翻す。
だが、期待した信玄は途中でこの世を
去り、久秀は圧倒的な織田軍に包囲される。しかし、心臓の強い久秀は、まだ、
信長は自分を必要としている、と算盤を弾き、いけしゃあしゃあと降参して出る。
首を斬られるか、と思われた久秀は信長に許され、どうにか首は繋がった。
しかし、それで改心するような久秀ではない。
今度は、上杉謙信の上洛が噂された。天正五年(1577年)十月のことである。
久秀は再び謀叛の挙に出た。信貴山城に立籠り、謙信が畿内に入るのを待った。だが、謙信は出陣の直前に脳溢血で倒れ、この世を去ってしまう。
裏切りが、あまりにも続きすぎた。さしもの信長も、今度は許してくれない。
信長は久秀が所持していた秘蔵の茶釜
「平蜘蛛」を渡せば、生命は助けてやると、久秀に申し伝えた。
だが、久秀にも意地があった。彼は、「平蜘蛛」に火薬を詰め、己れとともに吹き飛ばしてしまったという。
爆死は、この奸雄の、剛腹で壮烈な最期にふさわしい。享年68歳。
この記事は、歴史家で作家の加来耕三氏の『戦国武将学』から、引用しました。
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