ジョン万次郎 ②
日本に帰る決意をした、万次郎。
1851年に薩摩藩領だった琉球に上陸。
番所などで半年間、尋問を受け、
薩摩本土に送られた。
万次郎は、薩摩藩でも厚遇された。
藩主 島津斉彬が、みずから万次郎に海外の情勢や文化を質問し、斉彬の要請に
応じて、藩士や船大工らに洋式の造船術
や航海術を教えている。
薩摩藩での取り調べののち、長崎奉行所で、長期尋問を受け、土佐藩に帰る。
2ヶ月間、取り調べを受け、その際、
聞き取りに当たった絵師の河田小龍が、
万次郎の話を記録し、のちに、
『漂そん紀略』を記しており、その写本は、坂本龍馬をはじめ、多くの志士に読まれ、大きな影響を与えた。
万次郎が、故郷の母と再会てきたのは、帰国して約1年半後、漂流してから
11年目のことだった。
土佐藩に戻った万次郎はすぐに士分に
取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授に任命される。
そこでは、板垣退助、後藤象二郎、
三菱財閥を築く岩崎弥太郎なども、万次郎から直接指導を受けた。
さらに、万次郎は、直参旗本の身分が
与えられる。その万次郎、幕臣 江川英龍の配下になる。後に、軍艦教授所に、
任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導にあたり、勝海舟とのこうりゅうを深める。
さらに、アメリカに行く咸臨丸に通訳、技術指導員として乗り込み、アメリカに渡る。
明治後は、普仏戦争の視察などに、出向くが、帰国後、軽い脳溢血に倒れ、
静かな余生を送り、71歳の生涯を終える。
波乱の人生ながら、力強く生きた
一生であった。