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「承認欲求」の悪魔から逃れる、見返したくなるコンテンツ。

先日、高校時代の友達と久しぶりにラインのグループ通話をしました。ラインのグループ通話も、意外と音のざらつきがなくて快適。

久しく会っていない友人たちと話していると、これまで重ねてきた時間をゆるりと回想してしまいます。

あれよあれよと高校を卒業して、大学へ進学。モラトリアム期間を謳歌するための休学という抵抗もやむなく、大学もいつの間にか卒業して社会人になりました。

そして、社会人になったのも束の間。退職して、さらに1年が経ちます。

いつまで若いと言っていられる?

あっという間に歳を重ねてきたわけですが、人生の先輩から「まだ若いんだからなんでもできるねー」という言葉をいただくことがあります。慰めなのか、本心なのかも分からない言葉に、26歳アラサーの焦りは刺激されます。

そういえば、23歳で言われた時にも、「もう若くはないよ・・・」と内心思っていたような。今振り返ると23歳なんて本当に若い。

その方も今の僕が23歳に対して思う気持ちと似ているのかもしれません。

歳を重ねたことをひしひしと感じるのは、言葉の影響だけではありません。同世代のライフステージの変化が、残酷なほどに時間の経過を教えてくれます。

友人知人に結婚や出産が相次ぐ中で、何を大事に生きているのだろうか。

好きだから1番自慢できるものを

話は戻って、高校時代の友人たちとのグループ通話。

6人くらいの中で唯一出産をしている友人Aいわく、我が子の可愛さといったら、とんでもないのだという。

その言葉が浮ついたものではなく、彼女自身の腹の底から解き放たれたもので、偽りのなさが滲み出ていました。

印象に残ったのはここから。

彼女と仲の良いKさんが、友人Aの赤ちゃんがアップされてるInstagramを「何回も見て、癒されてる!」と言いました。

それに対して、Aさんはこう返したのです。

「めっちゃ可愛かろ!ウチが1番見返しとると思うけどね!」

その文章はまた見返したくなるのか

あー、そうか。

自分で見返したくなるほど好きなことを発信しているのか。
好きを発信することに勝るものはないんだろうな。

他に思うべきことはあったかと思うのですが、そんな本筋とは違うところで感心していました。

赤ちゃんと普段出すコンテンツを比較することはおかしいかもしれません。ですが、自分で見返さないコンテンツは誰も見ようと思わないですよね。

いつからか、誰かに見てもらいたい、ひけらかしたいものをSNSに投稿するようになっていた気がします。承認欲求を満たそうとしていました。

そこには読む人に対して、「これを好きになって欲しい!」とか「こんな良いものがあるからぜひ知って!」という情熱はありません。「自分のことを見て!」という厚かましい欲求がへばりついています。

そんなことより、好きなものを素直に出せば良いじゃない。

時には偏愛が祟って、批判にさらされることもあるかもしれません。でも、好きなものを純粋に知ってもらいたいというエネルギーで発信をしていけば、何か伝わるものはあると思います。

発信するときには自分自身で何度も見返したくなるほど、好きが滲み出るコンテンツにできているか、それが大事なのだと、旧友から気づかせてもらいました。


それでは、明日も続きます。


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ヒグ
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