所有から共有の時代へ。愛すら共有できるんですか?
今日はなぜだか、noteが書けるような気分ではなくて。(別に沈んでるとかではない。)
過去に下書きに入れていた記事を少し修正して公開します。
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Airbnb、Uber、ジモティー、クラウドワークス、Airclosetなど。
シェアリングエコノミー型のサービスが増えて「所有から共有の時代へ」ということが色んなところで唱えられている今日この頃。
「所有から共有」
物を持つことから解放されて、みんなであるものをシェアしようという流れ。物が増えると部屋に贅肉がつく感覚があるけど、シェアするのなら大丈夫。
コストも低く抑えられるし、良いことだらけだ。
実際、車だったり、漫画だったりを友人とシェアしている。ありがたき共有の時代。
愛も共有できるんですか?
『そして、バトンは渡された』という小説を読んで、愛の共有について頭によぎった。
『そして、バトンは渡された』は本屋大賞の受賞作。読んでみたら前評判を上回る小説で、涙あり、笑いあり。今まで読んだ小説の中でランキングトップ3に入る作品でした。
血が繋がっていない父(森宮さん)との2人暮らしをしている女子高生(優子)が主人公の物語だ。優子には母が2人、父が3人いる。
片親というシチュエーションはよくみるけど、親が5人いるという設定は初めて出会った。
親がたくさんいるからといって、優子に愛情が注がれていないわけではまったくない。むしろたくさんの愛情が注がれる。作品は一貫してポジティブな空気が流れていて、とても心地良く読み進めることができた。
で、浮かんだ疑問。
「愛の共有ってできるのか?」
今、僕はフリーランスとして業務委託で働きつつ、プライベートもフリーの身分。
平塚で1人暮らしをはじめてからというもの、ひとりの時間はだいぶ堪能した感があって、そろそろパートナーと時間を共にする喜びも噛み締めたい。
同級生の結婚や出産報告を見たり聞いたりしていると、そんな気持ちが強くなってきた。
そういうわけで、マッチングアプリを始めてみたところだ。
(それについては、上級者の人がいたらアドバイスください。)
愛の共有って、そもそもどういうこと?
さて、愛の共有について。あらゆるものが所有から共有へ、そんな流れが加速していることは先に述べた通りだ。
じゃあ恋愛って今までどうだったんだろう?
1人の男性と1人の女性が対になる。「付き合う」や「結婚」の状態は、今までいうところの所有になるのかもしれない。
男性からすると女性を所有しているし、女性からすると男性を所有していると言えるのかな。
じゃあ、それを共有するとどうなるのか。
一夫多妻とか一妻多夫とか?はたまた、多妻多夫なのか。いずれにせよ、今の日本の制度にはフィットしなさそうなことはたしかだ。
でも、愛の共有という概念はすでにある。
それがポリアモリーだ。
ポリアモリーは「関係者全員の合意を得たうえで、複数の人と恋愛関係を結ぶ恋愛スタイル」のことだそう。
これはたしかに愛の共有を実践できているのかもしれない。
愛の共有はこんなところにも。
よくよく考えると、複数人に愛情を注ぐって冷静に考えると異常なことはひとつもない。
例えば、子供への愛情。3人兄弟の末っ子として、両親からの愛情を受けて育ってきた。
それは姉も兄もきっとそうなんじゃないかなと。両親は3人の子どもたちに愛情を共有してきた。
他の兄弟の方が愛情が注がれているじゃないかという嫉妬の感情は特に抱かなかった。(もしかすると末っ子だったからかも。)
そう考えると、複数人に愛を分散させて与えることは至って自然なことだ。それに友達だってそう。優劣つけることができない好きな人たちがたくさんいるわけだし。
どうして恋愛においては、ひとりって考えられてるんだろう?
限界があるものに、共有は向いていない
ぶつかる壁は、時間の上限だった。
恋愛においては、2人で共に過ごす時間を大切にしたい。その時間はもちろんあればあるほどいいってわけではないけど、でも、極力あると嬉しい。
忙しくても会う時間をつくってくれたのなら、1人で食べることのないデザートだって一緒に食べたくなるし、生活リズムが多少崩れても夜更かししちゃう。
人間、と一括りにするのも違うけど、少なくとも僕はそんな人間なのだ。
相手にも同じようなことを求めてしまった過ちはあるけれど、でも、できるだけ会いたいを突き詰めた時に障害となるのは「時間」だ。
1日24時間。これはもうどうしようもない。
すごく単純化して「愛情=一緒に過ごした時間」とするならば、そこには限界が見えてくる。時間は有限だ。
それに対して、シェアリングエコノミーが進んでいるものは、有限ではあるけど、そもそもの上限が大きい。
車だって、使い余してるからシェアできるし、家だってそう。映画などのコンテンツもデータだから、ほぼほぼ無限に膨らんでいく。
上限が決まっていて、なおかつ、その資源が枯渇気味のものにシェアは向いてないんだ。時間は分かりやすくそうだし、他には冷蔵庫とかもそんな気がする。友達と貸し借りとか気軽にできない。笑
結局、上限が見えると、悲しいかな、奪い合いが始まっていく。
ポリアモリーを否定するわけではない、幸せが1番だから納得できるならそれが1番だ。でも、2人の時間を増やしたい僕にとって、愛の共有は難しいのかもしれないと思った。
途中で子供への愛の共有についても述べたが、きっと親からの愛は兄弟含めて同じ空間・時間でシェアできるから、愛を共有できるのかもしれない。
限りあるこの人生に大事なことは「捨てる」こと
こんまりさんが言いそうな言葉が表れる。
私たちの人生が、時間が有限であることはきっと確かなことだ。そうであるならば、時間を共有するには限界があると諦める必要があるのかも。
「捨てる」ことは多岐に渡る。
使わなくなった洋服を、心が踊っていない時間を、表面的なSNSでの付き合いを、自分自身の過去の栄光を、過去に取り残された人間関係を。
捨てるものの中に大事なこともきっと含まれる。だからこそ、捨てられることは強さだと思う。残酷な世界だけど、捨てた先に本当に大切な物が待っているのかもしれない。
もっと広く愛せるようになれたら。