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"ただしい"に苦しむくらいなら、"たのしい"に逃げよう。

人生で選択を迫られるとき。それは大学選びかもしれないし、就職先かもしれないし、結婚を決めるときかもしれません。

そんなとき、自分の気持ちを犠牲にした選択は取らないでほしいなと思いました。親から大学の学部が決められていたり、就職先を決めるときにも世間体を気にしてしまうかもしれません。

自分の気持ちに従うことができないこともあるかもしれませんが、できるだけ自分の楽しいに正直になってほしい。そう思うキッカケがありました。

自分だけが我慢すれば・・・

日本人の美徳とされている「自分だけが我慢すれば」という風潮。その姿は献身で美しいと映ることもあるでしょう。

昔の僕も尽くすタイプだったように思います。サッカー部時代には、ガリ掛けやボトルの給水などを率先してやるタイプ。掃除の時間もサボることはせず、礼儀ただしく過ごしていました。

当時は無理していたという記憶はありません。でも、今振り返ると、雑用をサボってる人を見て、苛立ちを覚えてストレスを溜め込んでいました。自分はちゃんとやっているのに。。。と。

もちろん誰かがやらなければいけないことはあります。でも、それを我慢してやるって健全ではありません。なぜなら、自己犠牲によるアクションは、周りの人にも自己犠牲を強いることに繋がりかねないからです。

自己犠牲の連鎖はやがて、つめたい言動につながっていきます。

努力してない人に対して寛容になりきれない。それは自分が我慢して努力しなければ、ほしい果実は手に入れるべきでないと思っているからです。

でも、もっとやさしい世界の方が、みんな幸せなんだろうなと思います。

たのしい経験でも人は育つ

成長は我慢しなければ得られないものなのでしょうか。きっとそれだけじゃないはずです。

サッカーが本当に好きで四六時中ボールを蹴っている人は、それを我慢してやっているわけではなくて、たのしいからやっています。

最近、ギターを始めました。我慢してやっているわけではないけれど、ある程度コードも弾けるようになって、成長を感じています。

たのしいことだって成長できる。これは仕事においても一緒なのだと思います。

Webサイトディレクションをやっていて、工夫によってより効率的な進行ができると気持ち良いし、デザインの案出しで色んなデザインに触れることもとてもたのしい行程です。

そんなたのしい行程であれば、誰かに無理強いをすることもありません。自分はこれだけ我慢したんだから、お前も我慢しろってことはなくなります。だって、やりたくてやってるんだもん。

そんな「やりたい」の実現をサポートできる人でありたいなと改めて感じました。

ただしいことに首を絞められるくらいなら、たのしいに逃げたって良いじゃないか。その方が関わる人たちにとっても、やさしい世界が広がるはずです。理想論ではあるものの、少しでもそんな思いの人が増えたらいいなと思っています。

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ヒグ
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