音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#0 〜設立前夜 持たざる者からのスタート〜
CM音楽など、広告に関わるものを中心に音楽を制作している、OFFICE HIGUCHI 代表の樋口太陽と申します。
今日、2021年6月1日は、会社設立10周年記念日になります。
個人事業のような社名ですが、実は組織として様々な変遷を辿ってきました。せっかくの機会なので、ここまでの道のりを記します。弊社は現在3名で運営していますが、今までには役員と正社員という形で10名。契約社員の形で2名。合計12名に関わっていただきました。
そのメンバーの中で、自分の目線によるものになってしまいますが、自分が唯一、この10年間の全ての過程を見てきたという事もあって、自分が代表して少しずつ綴っていきたいと思います。
〜時々日雇い、ほぼニート〜
12年前の2009年。僕は、福岡県の田舎、田川市の職業訓練校にて、エクセルとワードの資格をとるための訓練を受けていました。
ものごころつく前からピアノ。中学、高校、大学とバンドをずっとやってきて、できればプロミュージシャンになりたいと、就職活動をせず実家暮らし。日雇いバイトなどでその日をしのぐモラトリアム期間を過ごした後、そろそろどこでもいいから就職をしなければマズイかなと、職業訓練校に通いはじめました。音楽にのめりこんだ末路として、よくあるようなルートを辿った25歳です。ともだちとともに、日雇いバイトに向かう姿はこちらです。
自転車が趣味で、ロードバイクを2年間ローンで購入し、田舎道の狭い車道を大型トラックに怯えながら走っていました。このころは、音楽の機材よりも自転車のパーツの方に興味を持ち、インターネットでそれらを調べることに腐心していました。
時々日雇い、ほぼニートという、大学卒業後のモラトリアム期間を謳歌しておりました。そんなある日、3歳年上の兄、樋口聖典から連絡が来ました。
「仕事が忙しくてやばい。一曲つくってほしい」
普通なかなかないような連絡内容ですが、兄はそのころ、上京してフリーランスの作曲家として活動していました。僕は、兄の仕事をあまり把握していなくて、なんか東京で頑張ってるっぽいな〜というぐらいの認識でした。
そんな兄は、上京して数年で、音楽制作でプロとして生活できるまでになりましたが、なんとお笑い芸人になりたいという新たな夢を抱き、東京NSCの15期生として入学し、よしもと芸人になりました。「ギチ」というコンビです。
同期には、ニューヨーク、デニス、マテンロウ、鬼越トマホーク、横澤夏子、おかずクラブなど、有名芸人が多数出現した年でした。
音楽制作の仕事とお笑い芸人活動との二足のわらじ生活で、ものすごく忙しくなったという事もあっての、今回の急なヘルプのお話でした。
その内容は、FIAT と UNITED ARROWS が、コラボするWebムービーのBGMとのこと。田舎暮らしの僕には、それはそれは甘美な響きでした。
自分が作りたいような曲をつくるわけではなく「今回、こんな曲が求められている」という指令のもと曲をつくるという仕事。
どんなことになるのかよくわからないけど、まぁやってみるかということで、トライした結果、兄のサポートもありつつですが・・・結果うまく進み、無事に公開されました。これが、産まれて初めての僕の広告案件となりました。
後日、兄からまたいくつか連絡がありました。
「トランスのアレンジを一曲やってほしい」
「この歌詞でクリスマスソングをつくってほしい」
トランス?クリスマスソング?
今までの自分のロックバンド活動では登場してこなかったようなお題が、どんどん来ます。もちろん最初は全然形にできないのですが、兄のフルサポートで、なんとか一つずつ仕事として成立していきます。音楽制作ソフトのインストールの仕方から、使い方から、アレンジの仕方まで、おんぶに抱っこ状態です。
何件か、自分の住む福岡と、兄の住む東京とのリモート作業で、仕事を進めていきました。当時のギャラは実家暮らしの自分にとってお小遣いがちょっと増えるぐらいの金額感だったのですが、誰かが音楽をつくる必要があるという、こんな仕事が東京にはあるんだなぁと、実感しました。
そして、とある日、兄からまたこんな連絡がありました。
「もうお前、福岡で就職とかせんでいいき、東京で一緒に音楽の仕事するぞ」
当時、僕は上京など微塵も考えていなかったため、そう言われても・・・う〜ん・・・という感じでしたが、兄から、今どのぐらいの音楽制作の機会が東京にあって、将来性があるかを、ゆっくりプレゼンされたため、まだ就職も決まってないし、まぁそうしてみるか的なノリで、上京することを決めました。福岡でお付き合いしていた当時の彼女も誘ったのですが、彼女は福岡に残る事を決め、遠距離恋愛になってしまうことになりました。
引っ越し代などはもちろん何も用意していないため、各所にダメージがきていた愛車の軽バンで14時間かけて上京して、車は東京で廃車にする事にしました。
福岡から東京まで、車を一人で運転する事がしんどいなと思った僕は、同じく田川でモラトリアム期間を過ごしていた、ともだちの青柳考哉くんに声をかけました。
「一緒に東京、行こうや」
青柳考哉くんは、「じゃあ行くかの〜」と言って、ダンボールひとつだけを僕の軽バンに積み、2010年春に二人で上京しました。その時の考哉くんの写真です。
さて、なんとか東京に着きました。新生活のスタートです。
中野の小さなアパートで、兄と仕事も寝食も共にする、二人暮らしの始まりです。
東京生活・・・どんな華やかな生活が待っているのかと思いましたが、兄から一言。
「お前、いきなり音楽だけで食えると思うなよ」
えっ、前に聞いてた話と少々違う・・・でも実際、音楽だけで生活できるような状況では全くなかったので、ちょっとでも音楽と親和性のあるバイト先、カラオケ ビッグエコー中野北口駅前店でバイトを始めました。
「っらっしゃいませ〜 ヵラオケぃかがっすかぁ〜」
と、中野駅前で客引きをする日々。深夜帯にバイトをしていた僕は、夕方から朝までバイトをして、昼過ぎに起きた隙間時間で、細々と音楽制作の仕事をするようになりました。
しかし、そんな生活が数ヶ月経ち、僕は思いました。このままでは、バイトをしに上京したようなもんだ! バイトの安定した収入は無くなりますが、バイトを辞めて音楽制作の仕事に集中する事にしました。
当時の寝床 & 仕事部屋です。ロフトベッドを有効活用し、6畳の部屋で全てを収めていました。
2010年8月でバイトを辞めた後の、自分の当時の音楽制作での売上データが出て来ました。
2010年9月 ¥20,000
2010年10月 ¥51,000
当時、26歳。同級生は、そこそこ稼いでいる年齢です。
兄と一緒に仕事をしているとはいえ、僕の収入や仕事量の保証は、全くないという条件で上京したので仕方ありませんが、東京で暮らしていくには明らかにヤバい額です。ただ僕は兄と共同生活だし、お金がないとはいえ楽観的な精神状態ではありました。それまでにほとんどまともな収入を得た事がなく、社会人にもなったことがない、圧倒的な『持たざる者』だった事が、かえってよかったのかもしれません。
ちなみに兄が上京した時は、ほとんど後ろ盾がない状態で、一人暮らしで、仕事はなく時間だけはあり、途方もなく辛い状態だったそうです。数年かけて東京という地を耕してくれた後で僕は上京したので、設立前には僕の知らない世界も数年間存在します。
ここで、僕がとった緊急手段は、治験のバイト。
まだ世に出ていない新薬の実験台で入院するというバイトです。
治験のバイトは、これ以上ないほど集中して漫画が読める環境で、社会貢献にもなる、ある意味最高のバイトです。福岡でも経験済みだったので、東京でもお世話になるとは・・・と感慨深い気持ちになりました。
そんなこんなで生活を凌いでいた時期、昔からの音楽仲間である、中村皓さんという人物がいました。皓さんと、兄と、自分の三人で、とあるバンドスコア(楽譜)の制作というロングスパンの変わった仕事を始めることになりました。
皓さんとは、いつも中野の樋口家で共同作業をしていました。
その時に、いつも皓さんが言っていたのが
「今日、オフィス樋口行きますね〜」
オフィス樋口とは、この時のノリで産まれた単語でした。
つづく