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【エッセイ】逃げ続けた10年の先に見つけた光
心臓を抱えて雨の音を聞いてる。あれから10年経ったのか。と小さく驚く。2011年3月11日。僕は帰宅難民になり。久喜駅の公民館で固い毛布に包まりラジオ放送を聞いていた。
東京から群馬の祖母の家へ向かう途中、乗り換えで下車した。その瞬間に地震が起きた。目の前の女性の顔がみるみる青く変色して。それから地面が大きく揺れた。難破船に乗っているみたいに右に左に体が持っていかれた。どこかで悲鳴が上がり、電車の到着を知らせる電光掲示板が今にも落ちて来そうだった。
3分くらいで揺れは収まったが、体感では10分以上は踏ん張っていた気がする。心臓は早鐘を打ち、耳は熱く。冷たい汗が背中を濡らして、喉はカラカラ。「電車の運行は全て止まります」というアナウンスが流れた。駅員に促されて、改札を抜けたら大勢の人。マクドナルドだけが営業を続けていたが、やがて閉まり。街が完全にシャットダウンした。
携帯はサーバーがパンクしたせいか、一つも情報が得られず。宝くじ売り場の小さなラジオに人が集まっていた。「震度いくつだって?6弱?震源地は東北の方らしいぞ!」とか、なんか賑やかで。みんな興奮ぎみ。久喜駅に戻るとマツモトキヨシの商品が全部床にぶちまけられており、店長らしき人が頭を抱えていた。悲惨な光景だった。
カーネルサンダースは倒れてなかった。鳥は自由に飛んでいた。雑居ビルのコンセントを勝手に盗んで携帯を充電した。警備員にバレて怒られた。だけど、結局、電波はどこにも繋がらなくて。大人が母親とはぐれた迷子の顔をしていた。我先にとコンビニで食べ物を買い漁る者。僕は食欲がなく、コッペパンだけ買った。でも、みんな食料の確保よりも、早く家族と連絡を取りたがってた。一人ぼっちで、帰る場所より、行く場所を探していた。
後で知った事だが、当時付き合っていた女の子は、喧嘩中にも関わらず。余震の中、亀戸から僕の住んでいた高円寺のアパートまで(約20Km)自転車で走ってきてくれた。その頃、僕はよく知らない駅で、一人でポツンと立っていた。
「電車は動きません!公民館へ集まってください!」と駅員が声を枯らし叫んでた。人波に混じって、僕も公民館へ移動した。入り口で職員から、3袋ずつビスケットと、ペットボトルの水と、毛布をもらって。会議室のような場所で横になった。TVがないからラジオ放送で津波の情報を知った。原発の事故。増えていく死者数。ひどい状況を頭で想像して怖くなり、家族の心配をした。仲間を想った。みんなTwitterで励まし合っていた。断絶されたからこそ感じる繋がりや絆。
余震にびくびくしながら眠ろうとしたが。まったく眠れなかった。でも翌朝には、もう電車は動いてた。みんなが何かを忘れたような顔して仕事に向かっていた。ここは不思議な国だと思った。祖母の家に着くと瓦屋根が落ちていて、計画停電が始まっていた。
余震が一日に何度もあって、その度に、祖母は一階から二階にいる僕に叫んだ。「逃げるんだ。逃げるんだよ!」「逃げなさい!」と、その声は頭にこだました。
震災と直接関係はないが、僕はそこから10年間、逃げ続けた。仕事から逃げて。夢から逃げて。恋から逃げて(というか振られて)。友達から逃げて。自分から逃げて。気が付いたら、病院のベッドに寝ていた。色々なことに対して、投げやりになり、感情が壊れてしまった。
でも10年後の今になって、僕を見つけてくれた人がいた。そして、悲しみも、痛みも、全部抱きしめてくれた。それは愛だと思う。ボブディランも「愛が世界を動かしている、それなしでは何もできない」と歌っていた。彼女の温かみのおかげで、僕の調子は回復に向かい、また好きな音楽や文章を書けるようになった。生きていてよかった。
10年と言っても、震災に区切りなんてないと思う。やまない雨はある、明けない夜もある。誰もが運命の当事者だ。あの悲惨な映像を忘れることはないだろう。少し強い風が吹いてるだけで、心は花のように揺れる。でも、僕はもう一度、人生と向き合うことにしようと思う。
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