発症2年。
■はじめに
こんにちは、蒼です。
今日は7月29日。2年前の17:30頃発症に気づいたんですよね。
まだ2年。もう2年。
早かったような、長かったような。
ちなみに、発症から1年目には以下のような記事をエントリしています。
毎月29日(月命日と呼んでいる)及び周年祭である7月29日周辺は前回も精神的・身体的体調を崩してしまいました…。意外と繊細で、ガラスのハートを持つ私です(笑)
1周年の際のブログは発症から1年までざっくり書いてきましたので、今回は1年前の7月29日以降の私を振り返っていこうと思います。
■この1年を振り返って
【2018/7/29~8/30】介護保険終了
8月末で介護認定が切れるので、当初の予定通り卒業することにしました。9月からの復職が控えていたので、復職したてでリハと両立するのはどう考えても困難であること。土日しか休みがない上に通院が土曜日にまとまってしまう中で、お世話になれる事業所がないこと。
最大は現在の介護保険の枠組では「不自由でもできてしまう」という私は認定が下りても望むようなリハがうけられなくなることが予想できたから、というもの。
急遽、仕事場の都合で復職日が8/20に早まった関係で、仕事をする上で出てきた困り事を訪問・訪看の療法士さんに相談できる機会があったのはラッキーだったと思います。
【2018/8/20~】復職
いよいよ復職。私が休職していた間、代わりにがんばってくださっていた派遣社員さんがまとめて有休消化に入られることになったそうで(調整しなよ…)、少し早めに週2~3来てもらえないか、という要請があったからです。最初は調整ちゃんとしてよ、なんて思っていたのですが、週5、フルタイムの前にこういうならし期間的なものがあったのは今思うとよかった!
どんなこともポジティブに捉えるタイプの自分がこの時ほど頼りになったことはありません(笑)
※この頃の躓き…紙を揃えるとか、紙を捌くとか紙の動作
【2018/9半ば~転職決意】上司入院~転職エージェント登録
復職して2週間ほど。血管系の病気で長期入院決定。まじか…また一人で会社回すのか…
という思いでとりあえずやりましたが、退院してるのに持病の影響か12月末になっても会社にはほとんど来なかったので、転職を決意。年末の休みを利用して転職エージェント登録・面談。
【2019/1~3】子ども達だけじゃない!俺たち家族の受験戦争!
ムスコ氏センター試験に続き、ムスメ高校受験(私立→公立前期)の長期戦。ムスコ氏、第一志望の公立大には届かず、まあでも国立はうけようか、という点数。私立は自宅から通える学校3校中2校合格、ハハも東京まで受験に付き添った国立はうっかり自宅外に合格、そちらに進むことに。ムスメは私立は勿論、第一志望だった公立高校に無事合格。
その代わりハハの転職活動は一旦停止。
【2019/3】今日のやってみた最大イベント(謝辞)・オラ東京さいぐだ(目標設定プレセミナー)・ボウケンジャーの集い・ムスコ氏引っ越し・転職先決定(盛りすぎ)
3月は予定がてんこ盛りすぎた。
1日、ムスコ氏卒業式にて謝辞。マイクの前に杖なしで進み、謝辞の紙をパラパラめくり、さらに声を張って話す、しかも事前に提出してた内容とは担当の先生を泣かせるために当日変更という情報保障なかせのやってみた総決算でありました。
半ばには竹林先生はじめ尊敬すべき作業療法士の先生方にお招きいただきまして、療法士さんの前でお話する、という超緊張イベントに登壇。
このセミナーに参加させていただいたことは「世の中、わからずやの療法士さんばかりじゃないんだなあ」という私の安心と、忖度など関係無しに上げる当事者の声を届けなければいかんなあ、と再認識した次第。
忘れられないのは豪華お三方による、歩行見守り。同時に手が出るww
愛すべき友たちとの出会いがあったのもこの月。
Twitterでブツブツ言い始めて以来、尊敬し支えにしてきた先駆者達と京都で出会えるなんて当時は夢にも思ってなかったよね。この人たちがいたからこそ今がある、って感じ。
そしてムスコ新天地へ。これがキッカケで、長野の皆さんとご縁が深まります!さらにワタクシ、活動再開から電光石火の早業で転職先決定。
【2019/6~】令和、そして転職へ…
転職先が決まってから、所属していた会社が事業撤退する決定をするなど、引き継ぎで終わると思っていたのが事業の後始末をするはめに。
なんやかんやバタバタしたまま転職、ようやく2ヶ月が経ちました。
■自分の中に起きている心境の変化
復職した頃から少しずつ心境の変化は起きていました。
サポートしてくれる訪問の療法士さんがいらっしゃらなくなったにもかかわらず、調子を崩して手の動きが悪くなったときでも、焦ったり慌てたりしなくなったというのが大きな点でしょうか。うまく気持ちと体のバランスをとりながら日常生活を送っていけるようになった、というところかな。
回復を諦めているわけでも、現状維持でいることを良しとしているわけでもありません。3億当たったら速攻仕事を辞めて自費リハに全額つぎ込むぐらいの心持ちではおります。
諦めでも自暴自棄でも、割り切りでもない。
例えて言うなら「折り合い」という言葉が一番近いのかもしれません。
プラトー(やってもやっても停滞してる感)なんて言葉もありますが今はそんな感じではないかな。
ただ、ずっとリハビリのことだけ今の家族構成や状況も含めて考えられるか、というとやっぱりそれはできない。
できる限り自主トレなどはやってますが、一番伸びた2週間の外来の時のように、毎日療法士さんと一緒に5時間、家に帰って1時間、リハビリに費やせるか、というと現実問題として今の私には無理。復職前のように、平日一人で御朱印もらいにいって階段上って帰ってくるなんていうトレーニングもちょっと厳しいよね。
医療や介護保険でのリハビリが高頻度で受けられている人を羨ましいと思わなくはないけど(笑)、じゃあその時間に対応した復習的な自主トレを自分に課せるか、というと、今の私には無理かなー。せいぜいツイッターやってる間におはじきつまんだり、ジェンガつむぐらい。
発症2年たってガンガンに攻める、というよりも毎日じんわり持続する、という感じになってきてるかなあ、という自己分析です。あと10年は、っていってたから残り8年でしょ?短距離から長距離選手に転向した感じですね!
発症してから割と高位置にあった「楽器を吹く」という目標ですが、現状はどうか、というとみんなで合わせて吹くことは正直難しいと思うし(指よりも口の問題)、ムスコとたまに楽しめるぐらいかなーと。
※追記
STさんからリクエストいただいて、なぜ吹くことが難しいのかをまとめました!
特にオーケストラという大集団で音楽をやる以上、中途半端だったり、周りに気を遣わせるっていうのは本意ではないのです。こういう考えになりつつあるのも、誰に強要されるわけでもなく、自分自身を俯瞰的に見ることができて、「折り合い」がついてきたゆえんなのかなあ、と思ったりもします。
■これから続けていきたいこと。
2年経って、脳卒中患者の旬(※追記 回復という意味ではなく、後の人にこんなことで困ってたのよ、という困り事を伝える出来事が工夫や道具使いによって減ってきた、という意味で)としては過ぎつつある私ですが、後に続く当事者さんが私のような悔しい思いや困り事をかかえないように、Twitterでの発信は続けていくつもりです。また、療法士さんとお話しするのに忖度のない発言ができる経験者、としてもボチボチと活動しようかな、と。10月、ムスコが嫁い…もとい、進学してご縁がある長野で勉強会に参加させていただく予定です。一当事者の話ではありますが、細々とこの希有な経験をお伝えしていけたらな、と思っています。
【※追記】
大事なこと書くのん、ワスレテタ。
本日のムスメ、個人懇談で「なりたいしごとは作業療法士」と明言しよりました。私としては彼女の耳のこともあるので、言語聴覚士っていう道もあるよ、と伝えたのですが、この1年吉備にいったり、Twitterに流れる療法士さんの言葉をみたり、学校作業療法、というのがあるんだよ、という情報収集やいろんな経験がこの思いに繋がっているようです。
彼女の場合は自分の偏差値からボトムアップで考えているのではなく、まずなりたい職業があって、そこから「じゃあOTになるにはどうしたらいいのか」と考え始めているのでいろいろこれから変わるかもしれませんけどね!!
一年後、私はここからどうかわるのでしょうか??(To be continued)