依存と自立。
蒼です。
昨日からたくさんの方にご心配、ご教授いただき、深く感謝しております。
「依存と自立」について、私の考えることを書き記して残します。
一般的に、辞書に掲載されている「依存と自立」の意味とは、以下の通りです。
いそん【依存】〔「いぞん」とも〕
他のものにたよって成立・存在すること。(大辞林 第三版)
じりつ【自立】
他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと。ひとりだち。独立。(大辞林 第三版)
何十年も続く長い人生を見渡したときには「人は皆、誰か・何かに依存して生きている」という言葉がしっくりくるかと私は考えています。
それはあくまでも人生観的な考え方で。
2年半前の若年性脳卒中経験、かつ現在も完全には病前の機能を回復しておらず、リ・ハビリテーションの途中である私にとっての「依存」、特に療法士さんや家族への「依存」という言葉は、今までの人生観的意味とは少し違う風に考えるようになりました。
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発症2日で完全に動かなくなった左手足。
これまで「麻痺の受け入れはスムーズでした」と言っていましたが、実はこれには続きがあるのです。
「自分でできない。誰かに手伝って貰わないといけないことがある」ということは自分で自身を一番許せなかった、ということ。
1回だけ、本当にこの1回だけ。
トイレを手伝って貰ったムスメにあたってしまったことがあって。その時は発症直後に運悪く始まった生理中、女性の方ならおわかりいただけるとは思いますが、サニタリーショーツって漏れをふせぐためにぴったりした形のものが多いんですよね。麻痺した足を通したり、服を着るにはゆったりしたものが楽に脱着ができるんですが、ぴったりしたものだとそうはいかない。
中学2年という多感な時期だったムスメ。上手くいかないこと、量が多い時だったこともあって、私は「ちゃんとしてよ!」と声を荒げてしまった。
これは悔やんでも悔やみきれない失言でした。
この後悔が「生活に必要なことは全て、病前と同じように(どんな手段を使っても)自分一人ででできるようになる」という考えに繋がっています。
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肩に力が入るから、という理由で「頑張る」という言葉を使いたくない私ですが、今までの歩みを振り返るとどんな言葉が的確なのか。
4ヶ月にも及ぶ入院生活、これ以上ここにいても・・・という見切り退院後の私は、医療関係者の不信感がものすごくて。
生活期における医療者と共に行えるリハビリ時間は限られているし、自分でやるしかない。特にすべての時間をOTに費やしていた私は歩行の向上のために一人で取り組むには何が一番良い方法か、必死で考えていました。
復職への必須条件。
1)PCの操作
2)階段を上る(職場は3F)
3)車の運転(本社及び仕事先は50km以上離れている)
無理矢理、それらをとり戻すためにやったこと。
(継続と積み上げ、新規状況に対応すること)
1)片手でゲーム(エンドコンテンツまで最終的にはできるようになった)
2)歩く、とにかく歩く。
家の近所を歩くと歩行時間よりも近所の人に状況を聞かれる時間のほうが長くなるので、神頼みと階段歩行を兼ねた御朱印巡り。(その場所まで行くのに3)も必須になるので兼用)
3)毎日距離を伸ばして運転。高速のSA⇒SAの距離、平均50kmを想定して継続50km運転できるように。一般道で50kmクリアできたら次は高速。IC⇒IC1区間を少しずつ伸ばしていった。
全部家族の介助もなく、1人で退院後8ヶ月間やり続けたことです。
その間に昇降した段数は同じ時期・同程度の麻痺が残る方と比較することがあるなら負ける気はしません。
こういう状況を思い返してみて、当てはまるのは「死にものぐるい」。
周りからは「頭おかしい」とか、「狂ってる」なんて言われたこともあります。
「危ないから」「無理しないで」
ご親切にどうも、といいつつ「やらねばならないことを一生助けてくれるのか」「事故ったら自己責任でやってるから」「あの時の後悔は自分ができるようになることでしか昇華できない」という気持ちは、笑って流せることが増えた今でもまだ思い続けていることです。
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言葉だけのやりとりは難しい、と常に感じています。
ただ、自分が入院中に感じた療法士さんとの齟齬に近しい呟きを見かけて「スルーする」ということは私自身はできないと思う。
いつもより文章のまとまりはありませんが、身を削るような思いで紡いでいる言葉がいつか誰かの心に響くと信じて。
いつものように呟けるようになるまで、ほんのちょっとお時間をください。
また、最後になりましたが今回のやりとりを見て気分を害された当事者・医療者の方に深くお詫び申上げます。