時計が掛かっている四角い2階建ての建物の横に鬼が金棒を持って立っている絵
ちょうどお昼時で、窓の外からは心地よい日差しが差し込んでいた。
病棟の廊下は ”お昼ごはん” の匂いがした。
腰の下までありそうな、長くて大きなエプロンを付けた主人は、食事を食べさせてもらっていた。トドのように丸々と太っている身体は、かろうじてベッドの背に支えられながら、それでもだんだん、どんどん左に傾いていく。
「あ、奥さんですね!担当させていただいているKです。」
「いつもお世話になっています。ごはんまで食べさせていただいて…ありがとうございます。」
「そんな、とんでもないです! 」
初めて会うKさんの、窓の外の陽のような穏やかな笑顔が、わたしをほっとさせてくれた。
「お父さん、口からいっぱい出てるよっ!きったないなー。」
「そうかーー?」
「Kさん、こんなにこぼしちゃってて、本当にすみません…。」
主人は口に入っているごはんをボロボロこぼしながら、ゼリーの容器を右手でぎゅっと握って口に入れた。ごはんもゼリーも口からどんどんこぼれていることに、ほとんど気に留めていない。
「お昼ご飯にゼリーまでついてるんだね。豪華ぁ~。」
軽口を叩いてみたけど、それ以上は何も言えなくなった。
生まれたばかりの赤ちゃんのように、一から、少しずつ少しずつ、物事を覚え(直し)ているように見えた。
「あぁーこれ、ゼリー状のお水なんです。まだコップではお水飲みづらいでしょうから、これ、残さずに飲むようにして、しっかり水分を補給してください。」
「へぇー、今どきはいいものがあるんですね!」
左が麻痺しているから、今はこぼしたって仕方ないんだ。
今は、ね?
食べながら、だんだんと、そして、どんどんどんどん左に傾いていく身体を、Kさんと2人で何度も何度も元の体勢に戻した。
「そうだそうだ」と言いながら、Kさんはサイドテーブルに置かれていたクリアファイルの中から1枚の紙を取り出した。
「実は午前中、ほんのちょっとだけだけなんですけど、リハビリしてたんですよー。」
「えーーー!?もうリハビリとかするんですか?まだほとんど左は動いてないのに。」
わたしの中でリハビリと言えば、立ったり、座ったり、歩いたり、曲げたり、伸ばしたり、それは身体を動かすものであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
まだ、自分で身体を起こすこともできないのに、何やったんだろ?
「このごはんを食べる行為そのものもリハビリですしね。朝は ”間違い探し” をやってみました。」
「間違い探し???」
白いその紙には「時計が掛かっている四角い2階建ての建物の横に鬼が金棒を持って立っている」という、なんとも不思議な ”同じ絵” が2つ描かれていた。
シンプルな描線で、どうみても幼児向けの間違い探し。
右と左の違いはたったの3つしかなかった。
え?? なにそれ???
なんの話か分からなかった。
「なんかさー、俺、2つしか見つけられなんだよねぇ〜。」
拍子抜けするほどのんきで、そこに焦りや羞恥心は微塵もない。
まずい、とか、なんでこんな簡単なことが分からないんだ、とか、違和感や戸惑いの感情をいっさい読み取ることができなくて、もっと話が分からなくなった。
「こういうこと、これから少しずつやっていきますので。」
何か聞かなければいけないことがあるはずなのに、今はちょっとだけわたしがこんがらがっていることにして「これからもよろしくお願いします!」とだけ言って、それ以上考えることをやめることにした。
思考をぼんやりと停止させて、床にこぼれたごはんを拾うのに集中すると決めた。
そして、Kさんは看護師さんではないことにも、その時のわたしはまだ気づいていなかった。