子供たちとの対話 ココロタイムレス 創刊号 (2010年作)
どうしてあんな実験を試したんだろう? それは成功したのか失敗したのか? 気づくとぼくは、ココロ世界の潮に呑み流されて探検が始まった!
誰にも聞こえない、心の声はどこから聞こえてくるんだろう。誰にも見えない、心の地図はどんな形だろう。距離はめちゃくちゃ、時間はあべこべ。地面は…。あれ? 地面は? …ぼくは生きて帰れるんだろか。
あ、どこからか子供たちの声が聞こえてくる。
「こころがあるからいきている。」
……って言われても……。生きてる感じもここじゃいつもとなんだか違うんだ。
「おぉい。きみ達もこの探検隊に加わってはもらえないか? どうも手ごわい冒険になってきたんだ! 手を貸してほしいんだ!」
と、叫んでみたものの……、いきなりココロの世界から声をかけられてもなんのこっちゃわからんよね。まずは説明しよう、ココロの探検が始まった、「ある実験」のこと。
★ココロで「あ~」を言う実験
・静かな場所で一人になる。
・目を閉じる。
・心の中で「あ~」と言う。
これだけ。君も試してみて。
これは、声を出してやったら、
・「あ」と言う前
・言っている最中
・言い終わり
それぞれの瞬間がはっきりとわかる。でも黙ってやると、「あ」と言おうとしてる自分、「あ~」と言っている自分、「あ~」と言ってると感じてる自分、「あ~」と言ってたなと振り返ってる自分、それぞれの自分が時間通りならばない!
もう言い始めてるのに、まだ言ってない自分が重なったり、言い終わったはずなのにまだ言ってる自分が重なったり。
……時間通りならばない、ってことは……、もしかしてココロに時間は無い!?
それが本当なら衝撃的事実だ。ぼくは時間の中で暮らしてて、ココロの中にも当然時間が流れてる感じがしてたし、心の時間の有る無しなんて疑ったことさえなかった。これは人生最大の大発見!?
と、ドキドキ過ごすこと数日…だんだん今まで信じてた目の前の「現実」がしぼんでって、代わりにココロの世界の波が、今まで気づけないでいたもう一つの「現実」が、押し寄せて、呑み込まれていった。
あれから、そう、三年が過ぎた。今はだいぶココロの奥へ来た気がする。いや、降りてきたのか、昇ってきたのか? なんせここらじゃもう、上も下もわからないどころか、君がぼくなのかぼくが君なのかすらわからなったりするんだ。確かめたかったらここへ来て、大切な人のことを想ってみたらいい。まるで自分がその人になったみたいに感じられるかもしれない。あ、でも気をつけて。ここらじゃ好きと嫌いの違いがわからなくなることも、ときどき、ある。
ん…、誰かがまた答えてくれてるよ。
「心は人間がつくり出したもの(想像・創造)」。
確かに! ここには、初めてなのに見覚えのある風景があちこちあるし、思い通り想像できることもたくさんある。そのわけはぼくが頭の中で作った世界だからかもしれない。でもね、探検が進むうちに「思ったことがかなった」のか「もともと結果を知ってたのか」どっちかが見分けがつかなくなってきたんだ。どうやらココロの世界は「想像してること」だけじゃなくって、もっと広くて知らない場所がずっと広がってるようなんだ。それがどこまで続いてるかわからない。
実感できるのは…
・考えてること…「天才計算機 脳ミソ」のシュミレーション。話して説明すれば人に理解してもらえる。自分で創造できる想像の世界。
・気持ち…考えなくっても感じる。説明しなくても共感できることがある。
・ココロ…説明するのが難しい不思議世界。
この目には見えない三つの実感はつながり合ってて、組み合わさってもいるようだ。でも普段の「考え」や「気持ち」はまだまだココロ世界の入り口。そこから離れるほど、自分のココロであっても自分で「思いどおり」にならないことがたくさん見えてくるし、「思う」のが先か「起こる」のが先かなんて、あまり気にならなくなってくる。つまり「想い」も「事」も同時にここにあるよな感じ。「あ」を言う実験の事がうまく説明できないのもそんな感じ。予言や予知夢が湧くのもこの辺りだろか? 時間の様子がね…だいぶ変わってるんだ、この辺りでは。まるで時間なんてないみたい。だいたいさ、…時間てなんだろね?
★時間はどこにある
時間のこと考えてたら、またアドバイスが届いたぞ。
「時間は人がつくった。時間はなくても時は流れる」
そうか! 時間には人が作った時計で計れる時間と、お日様が昇って沈んだり人間なんかがいなかった時代から流れてるのがあるんだな。これは興味津々の材料だ。ココロと同じで、人が作ってる部分とそうでない部分がありそう。
楽しい時はあっとゆう間、退屈な時はなかなか過ぎない、って経験ない? ぼんやり考え事してて「一時間くらい経った気がしたのに五分しか進んでなかった」て話も聞いたよ。動物によって流れてる時間が違うて話も読んだことある。時計は世界共通のモノサシのはずだけど、みんなが感じてる時はバラバラみたいだな。時ってなんだろね? ぼくの意見を聞いて欲しい。時は距離と関係してると思う。「距離」ってのは、「君はそこにいて、ぼくはここにいる」ってこと。君の鼻は顔にあって、ヘソはお腹にある…違う場所にあるってこと。
もしここが0次元だったら、君もぼくも鼻もヘソも、宇宙の全てが形の無い一個の点だ。形が無いから距離なんて無い。距離が無いから前に進むこともできないし、跳びはねたりもできない。
でもぼくらが普段暮らしてる3次元には、そこもここもあそこも、っていろんな場所があって、おたがいに距離があるし、君の体も身長て距離を持った形あるもの。距離があればそこ から ここ へ来る「時」が生まれるし、距離と時が「物」を生む。君の家の庭を猫が横切っていくのを、君は時間をかけてそれを眺めるってことになる。止まって見える岩だって、大昔からの長い時代で見れば動いてる。体が育つのも、食べ物が腐るのも一種の動きだし、時間が必要なこと。「距離があるから時が生まれる、時が流れるから距離がある」それが「物」の世界だと思うんだけど、どうだろう。これは「計れる時=時間」のはなし。じゃ、人それぞれに感じる「計れない時」はどうなってるんだろう? 夢を眺めながらそのことを探ってみるね。
★夢の中に時間はある?
夢って、起きてる間に見たことも出てくれば、ぜんぜん知らない場所や時代にも行けるよね。乗り物に乗ったり歩いてでかけたかと思えば、突然場面が変わることもある。想像できないような「ありえないこと」が起きてるのに驚きもしなかったり、でも楽しい夢はやっぱり楽しかったり。時間も距離も感覚も、普段とぜんぜん違うことと、いつもどおりのことが混ざってる。そんな夢の世界は、ぼくらが探検してるこの目に見えないココロ世界が、映像になったものじゃないかな。
ココロ世界で時がどんなふうに流れてるかを、ぼくは観察してはいるんだけど、そう、君の言う 通り、ここには「時計を持って行けない」し、ココロのどこへ行っても狂わない時計を作れないから、時間を計りようが無い。 さっき「距離があるから時が生まれる」て書いたけど、いきなり違う場所に飛ぶのなんか夢の中ではしょっちゅうだから距離も測れない。しかも「としをとったり、あかちゃんになったりする」んだから、時のモノサシは「統一できない」ってことなんだな。「個人個人の時間」…そうか、だから楽しいとか退屈とか、集中して考え事したりとか、時間の感じ方も変わるのかもな。それは伸びたり縮んだり、「計れない時」なんだね。
でも例えば「今から目をつぶり、1分後に目を開けてください」なんて言われたら、声を出さずに「1、2、3…」と数えてぴったり1分後を当てられるかもしれない。その感覚はかなり3次元に近い、ココロの浅瀬で想像したり考えることができることのように見える。
ココロの浅瀬には、3次元・物の世界の「計れる時間」がココロにも滲みてるんじゃないだろか? そして物の世界から離れるほど、時の流れ、というより「時」そのものが感じられなくなってる。距離も測りようがない世界で「離れる」ってのもおかしな話だと思うでしょ? でもこうやってココロ世界を探検してると、そんな言い方しかしっくりしたのが思いつかない。ココロ世界にも、深さか広さ……が、ある気がしてならないことがあるんだ。自分のココロの中なのに、知らない世界がずっと広がってる気がするんだ。
★ううちゅうとこころは、どっちがひろい?
ココロ世界の探検の難しさと危険は、まさに「じっさいに目には見えない」ところにあるんだね。だから頭の中で絵となって現れる「夢」はココロの地図みたいなもので、とても助けになるはずだ。それに「心の問題」って言うといかにも難しそうだけど、「夢の話」となれば日常的で、ちょっと解りやすそうじゃない? そんな身近な夢、見えないけど確かに感じるココロの世界は、いったいどこにあるのかな? ぼくはこの探検でどこに入り込んでしまったんだ? おーい、ぼくの声はどこから聞こえてきてる? みんなは心臓の辺りを指差したり手を当てたりして「ここだよ」ってゆうけど…。
そう。気持ちが動いたとき、心臓がドキドキするよね。楽しみは胸がワクワク、悲しみは胸がギュゥ…。
うん。確かに、考えや想像や夢は脳の働きで生まれる、って言われてる、けど…うーん…。
「うちゅうとこころは、どっちがひろい?」
ん! すごい疑問が湧いてきたね! 宇宙とココロ世界はまるで正反対。宇宙は目で見えて、時間と距離がハッキリある。ココロは目で見えず、時間も距離も意味が無い。
でも似てるところもある。人が行ったことのある月。近くの星は人工衛星で、遠い星も望遠鏡で観察して、人は宇宙についていろいろ知った。でもまだまだわからないことだらけ。なにせとてつもなく広いらしいから。
ココロはどう? 頭で考えること、気持ちが胸に湧き上がること、何かを決めたり影響されたり、そんな普段感じることは、太陽系みたいにご近所のこと。でもこの探検を進めていくと、「ぼく」と思ってるこの自分自身の中に、自分の知らなかったことがどんどん見つかる。もっともっと未知の世界が広がってるのが見え始める。まるで宇宙の不思議みたいじゃないか。宇宙とどっちが広いんだろか? ぼくも知りたい。
★ココロ人に会えるかな
そうだ、宇宙には宇宙人。ココロにはココロ人がいるかもしれないよな。もしかしたら、ココロはもう一つの宇宙!? だとすると…ぼくらは二つの宇宙の境目にいる!?さっきココロはどこにあるんだろう? て考えたけど、宇宙とココロが重なったところにぼくたち生まれたのかもしれない。
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そろそろ今回の探検報告は終了。探検隊に加わってくれた子供たちの力でいろんな発見ができた。「時」の謎の解明にも一歩迫れたはずだ。そして最後に正反対の「宇宙とココロ」を並べて眺めて、また新たな疑問を発見できた。ココロのことを言葉や絵にするのは難しい。
「もうむり」って? そんなにがんばらなくていいんだ。知りたいときに「知りたい」と思って調べてみれば、自然とヒントは湧いてくる。それこそココロ人の声が聞こえるのかも。でもこれはやっぱり探検だ。注意深く進もう。
★編集後記
「心に時間は流れていないかもしれない」という見地の発見は、「かもしれない」という不確実さを含みつつも、私の自意識を一新させた。記事本文でも述べたとおり、それ以前、時間は水の流れのごとく過去・現在・未来と進む不可逆な原理であった。しかし自分の心の内に、時間の法則では捉えられない現象を発見したとき、その絶対的な流れは「目に見える世界において」という但し書きで限定されるものとなった。心と身体から成る「私」に関していえば、時間の法則に従うのは身体だけ、ということになる。心は「現実の存在」としての姿を日に日に顕した。まるでそれまでの時間の圧制を覆すかのごとくである。心は、私によって不当に三次元の時間法則に縛られ、現実界での地位をおとしめられていたのである。
これは私だけの状況ではないはずだ。私が暮らしてきた社会では、心身のうちの物質・時間を尺度とした合理、心を抜きにした客観性など「身」に重きを置きいている。対して、見えない聞こえない計れない「心」の世界を語った終いには「でも実際はさぁ……」と心の事象は現実外のように扱ってこなかったろうか。そしてこの偏りが、人生の生命力を奪っている気がしてならない。
「お天道様はなんでも知ってる。悪いことをしたら、自分にとって悪い事が返ってくる。良い事もいっしょダヨ。」
これは中学2年生の女の子が書いてくれた言葉である。「お天道様ない夜はどうなのか?」という疑問が湧いたが尋ねる機会を逃した。しかしこのお天道様は、きっと晩も見守って、彼女の心を照らしているのではなかろうか。これはココロタイムレス次号への大きな宿題として残しておく。「光」は、今最も気になる現象である。
この壁新聞展制作にあたり、「探検隊」に加わってくれた子供たち、その親御さん方に感謝します。制作と展示の機会をいただいた あしたの箱 さん、ありがとうございました。(了)
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2023年 追記
当時、日夜思いを巡らせていた、時間と心のつながりとつながらさについて、子どもたちにその疑問を聞いてもらい、壁新聞としてまとめたのが冒頭写真の新聞。大阪にあったギャラリーあしたの箱の企画展「壁新聞展」に参加するにあたって制作したものだ。人づてに紹介してもらった、年長さんから中学二年生までの子どもたち15人ほどを、個別に訪ねたり学童保育のような場におじゃましたりして、対話したり絵を描いてもらったりしたのだった。