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六連合唱祭

11月の本番が終わった。
達成感、疲労、安堵が心を占めている。
もちろん仕事は残っている。明日は友人との食事もある。
しかしそれ以上に、プレッシャーから解放されたという気持ちが大きい。

歌ったのは、明治大学校歌、シシリアン・ブルー、きみ歌えよ。四年生全員で歌ったのは、「帆をあげよ、高く」(以下帆をあげよ)。六大学全員で歌ったのは、IN TERRA PAX(以下インテラ)。実はインテラを合わせたのは今日のリハが初めてだった(!)。合同練に1回も出られなかったのは痛かったが、他大の歌声に助けてもらいなんとか歌い切った。
明治大学の校歌は慶應の塾歌と似たものを感じる。親近感がある。曲調として、校歌にありがちなマーチではなく、レガートが多めなのもシンパシーを抱く理由だろうか。特に白雲のスタッカートから駿河台のレガートへの流れるような移行は、歌っていても心地が良い。

シシリアン・ブルーはサマコンでも歌っていた。冒頭のユニゾンは深く大きく、どこまでもどこまでも続く空を想像させる。そして、海。空の青と海の青が溶け合う。「藍、縹、紺、瑠璃、すべてが永遠と混ざり合ってゆく」男声と女声が色の名前で掛け合い、後半の語りで和音がなる。まるで色が溶けて互いの境界がなくなるようだ。テナーの「フェニキア人の……」は、古代フェニキア人の青年が蘇って私たちに語りかけるようである。或いは、シチリアのエリチェを旅する詩人自身だろうか。疾走感。人間の生きる1日1日の重み。シシリアン・ブルーは、私たちの大好きな歌の1つだ。

きみ歌えよも歌っていてとにかく楽しかった。アルトの良いところは、男声の近くで歌えることだ。きみ歌えよ、という言葉の掛け合いが続く歌なのだが、テナーの青年らしい声はこの歌にマッチしている。それを間近で聴けるのはアルトの特権ではないだろうか。それはともかく、人間のダメな部分も、丸出しにして歌え、とこの歌はいう。跳ねるようなリズムとは対照的に、歌詞はしっとりとしている。そして、「ひとりで」歌えよと語るのである。合唱にもかかわらず。そうしてひとりで歌った歌に、いつか誰かが耳を澄ます、と寄り添うような、肯定するような、そんな優しさがある。私は近頃、結局は孤独であると自覚することが多いのだが、この歌を歌っていると孤独が癒されるように感じる。その理由の中に、楽友の仲間と歌っているから、というものがあるのは間違いないと確信している。

帆をあげよ、はつい熱くなってしまい、気分はソリストである。(合唱失格ではあるが。)2年前に越えた二十歳の海と、今21歳として越えた二十歳の海は、また違う波であると感じている。曲として好きな部分は、第一にピアノだ。波を表現するかのような16分音符、静かで切ない入り、高音が1音だけ響くときの静寂……時に二十歳の海を越えんとする青年に立ちはだかり、時に二十歳を迎えようとする青年のエネルギーを引き出し、激励を送ってくれる。この曲はピアノなくして成立しない。
そして、第二に、歌詞だ(メロディは殿堂入り)。私にとっても二十歳の海は何だっただろうか。毎日の小さな出来事が、荒波のように立ちはだかり、今どこにいるのかすらも見失っていたあの頃、苦しくて仕方がなかった。私のいる意義、生きる意味、存在価値、それらを疑うのは苦しい。今もなお、それらは私の中で問として存在し、完結していない。
帆をあげよ、でつい熱くなってしまうと言った。それは、歌詞が勇壮だからだ。だが1人の青年の中の嵐が、必ずしも他人から見て嵐に見えるかは分からない。ひょっとしたら、凪でさえあるかもしれない。だが、1人1人の嵐を越える、君なら越えることが出来る、自らの鼓動をエネルギーとして進め、とこの歌は歌う。
どこまでも青年を、人間を信じている。

インテラは、大人数で歌ったことで、地球の大きさ、地に満ちる平和というのを実感できたと思う。この世に生きる全てに平和が訪れるように。野辺。草や木などの命。乾いた砂漠に緑が芽生え、地に平和が満ちていく。アルトとソプラノのlaを聴いていると、少しずつ緑が広がる様子が頭に浮かぶ。そして最後に、in terra paxと全パートが和音を奏でる。すべての命の歌声が、その時、聴こえてくるようだった。青い地球を宇宙から眺めて、抱擁したくなった。
森羅万象へのとめどない感謝と、どうしようもない愛しさがこみ上げる、そんな歌だった。

宴はこれでは終わらなかった。男声の斎太郎節(男声の力強い歌声が羨ましくなる)に始まり、「ほらね、」、わが抒情詩と相成った。
ほらねを歌っている時に、涙が出てきそうになった。「歌はあなたの大切な友達だから」どうしてこんな簡単なことを忘れていたのだろう。人の中で、人は1人だ。でも、歌は寄り添ってくれる……ん?
人間が逃れられない孤独は、死に限らない。生きていようとも、友人、恋人、親であっても完全に理解しあうことはできない。その中で孤独を感じた時も、歌は私のそばにいてくれる。そうして、人の関わりの中に、再び戻ってゆける。人のことを信じることができる。言葉にできなくなった思いが、歌として飛び出してきたとき、それは、紛れもない大切な感情、誰にも奪われず、誰からも否定されることのない、大事な「私」の一部であると、この歌はそっと肯定してくれる。

わが抒情詩は、人の一生の美しくないところ、よくわからない不明瞭なところ、人生の無意味さというのを真っすぐに見せつけられているようで冷水を浴びせかけられたような気持ちになる。だが不思議と清涼感と朗らかさに満ちている。人生の暗闇に対し、淡々と語るだけで、否定も肯定もしない。ただ暗闇があるよ、というのを歌っている。そして人生はそういうものだよ、と押し付けずに教えてくれている。この歌を歌うと、どこか安心することができる。

指揮者でもピアニストでもないが、それなりに緊張はするものだ。本番を終え、解放されたという安堵を抱いている。途中、忙しすぎてもう無理だと投げ出したくなる時もあった。だが、今では心からこう思う。
最後の六連合唱祭で歌えてよかったと。

共に歌ってくれた仲間たちに感謝を込めて。

2024.11.11


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