凪の人生に小石を投げ込み続けろ

 このノートは私に対して興味のある人にしか面白くなく、大変に長ったらしく曖昧模糊とした話です。それでもよければご覧ください。たぶん時間を無駄にします。

 昨年の12月、コロナウイルスに感染しまして、端的に死ぬかと思いました。そんな特別重症であった訳ではありませんでしたが、一人暮らしでの重めの感染症はけっこうキツいもんがあります。熱が39度から下がらないと、これ死ぬかななどと思ってみたりもするものです。そんなわけでmemento moriのような言葉に重みを感じるようになりました。

 二十歳頃から薄々感じてはいたものの、人生がしょうもない繰り返しの連続に感じられて意義とか意味とか理由とかも見出すことができないままでいました。このあたりは現在参加中の「アイノセンタクキ」と被りますね。この話はおいおい。

 転職して間もない時期でありましたから環境の変化で新鮮な部分は多々あった頃合でした。しかし、多少の環境の変化はあるにしろ、繰り返しの軸である環境が変わっただけで、その軸の周りをぐるぐる螺旋運動している人生の変わらなさ、逃げられなさといった僕の中での人生のイメージはこれっぽっちも変わることはありませんでした。

 ホメオスタシス(恒常性)という言葉は生理学の言葉で、人体の状態は一定に保たれるというようなことを説明する語句です。このホメオスタシスはメンタルの状態にも僕にとってはよく当てはまるものでした。少々揺さぶって見てもすぐに元の場所に戻ってきてしまう。どんなことをしてもつまらない繰り返しの中に引き戻されてしまう。さながら、蟻地獄に巻き込まれた蟻のような気分でした。

 要するに人生に対して退屈と恐怖を感じていました。毎日同じことの繰り返しへの退屈、いつかなんの前触れもなく終わってしまう恐怖。このことを考え出すと今でも怖くなってしまいます。

 この感情から逃げ出すために今年の正月に思いついたことがあります。毎日同じことの繰り返しで人生が凪いだ海のように感じられてしまうなら、少しでも細波経たせるために、小石を投げ入れ続けるしかないのではないかということです。
 
 真っ先に投げ込んだ小石は筋トレでした。お正月明けすぐくらいに、ジムに入会しました。人生という凪いだ海に投げ込む小石とは今までやったこともなく、意図して始めなければこれからもやりそうもないことであり、その最たる例が僕にとって筋トレでした。27ではじめて30までに成果が出れば最高に格好いいので、ちょっと頑張って見る予定。

 千字も引っ張りましたが、ここからは演劇の話。演劇人の皆さん方は自分が演劇をやる理由みたいなものを探し求めていらっしゃったりする方もいますが、僕の場合は大変にシンプルで「演劇のような共同創造の経験が僕には必要だから」です。先程、死ぬことが怖いと述べました。いつもいつも死ぬことを考えているわけではありませんが、ふとした時に生成隆起してくる感情です。何だったかよく言われることに「人が本当に死ぬのは肉体の死ではなく忘れられた時に死ぬのだ」という名言?をしばし目撃します。演劇で役者をすることは、役者仲間との共同創造であり、制作、演出スタッフとの共同創造であり、本荘を見に来たお客様との共同創造なわけです。この時想像の目的物は何かと問われると僕自身回答に窮しますが、怒られても構わない局面ならば「思い出」と答えるつもりです。演劇を作り上げていくプロセスの中で、仲間と思い出を共有し、そしてお客さんの心に何かを残せれば、私のような木端役者としては望外の喜びです。今日のところは演劇の話はここまでにしておきましょう。

 次に武術(合気道)の稽古の話です。引っ越ししてからいい道場に巡り会えていないので、しばらくこちらの稽古はできていませんが依然として私にとって大切なものです。毎日同じことを稽古で繰り返すのですが、神経を張り巡らせれば同じことの繰り返しなのではなく毎瞬違うことが起きているのが知覚できます。人生は同じことの繰り返しではないと気づかせてくれます。簡単ですが武術はここまでです。細かい話はまた別の稿に譲りましょう。

 支出面から見れば、本に多額の支出をしています。本は新たな視点を提供しているので人生をくだらない繰り返しから自分を連れ出してくれるのではないかという期待があります。

 さてさて、今回は総論としてホンの軽く説明することしかしていませんが、最近の自分の感じていること、それに対してどういう手段で向き合っているのか書き出して見ました。油断をしておりまして文字数があともう少しで2000字になってしまいそうです。今回はここで筆を置きます。もしここまで読んでくれた奇特な方がおられたら感謝申し上げます。ありがとう。


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