今、僕が演劇をする理由から始める考察:次の時代に向けて

2月は毎日ノート更新をタイトルに書くのやめました。そろそろ伝わってほしいやつには伝わったやろうしな。

話は中学時代の初舞台に遡る。助走で小学時代に遡る

 小学校に僕の居場所はありませんでした。小学校は僕にとって牢獄のような場所でした。友達というべき相手にもなかなか恵まれず、世界のどこにも自分のことを理解してくれるひとはどこにもいないんじゃないかと思っていました。とにかく毎日毎日が閉塞感に包まれていて何処かに逃げ出して自分ではない誰かになりたいと思っていました。
 そこで環境を変えるためだけに中学受験をしました。環境は変わりました。友人はできました。中学の友人は今でも時々飲みに行くくらいです。でも中学も僕にとっては牢獄の様に感じられていました。中学時代が永遠に続くわけじゃあないんですが、変化のない日常が馬鹿みたいにダラダラと続いて、それが永遠に続くかのように錯覚していました。
 幸いなことに中学で牢獄から抜け出す防壁の裂け目を見つける事ができました。それが演劇でした。当時僕のいた中学では部活とは別枠で総合的な学習の時間の代替としてのクラブ活動がありまして、一夏の経験として部活とは別の活動をすることができました。それが演劇クラブでした。一夏といいつつ、5月にスタートとして8月中頃に本番ですからけっこう本格的です。中学の方にも金があって市民ホールを借り切ってやってましたもんで、880人のバカでかホールです。役者としてのデビューが中学二年生でこのサイズのホールとは華々しいですね。中学の時の演劇で気づけたことって、役者としていることは私を取り替え可能な誰かではなく「その役をした自分にしてくれる」ということでした。

さいきん…

 さいきん、ダブルキャストの演劇をしました。終演したあと、僕はあの劇を演じてそこにおいては僕はもう変えの効かない人間なんです。い終わった今となっては僕がいないとその演劇はその形で終演していなかったという事実がありますからね。
 社会人として過ごすことや学生として過ごすことはいつだって僕自身は交換可能な誰かです。僕にとっては、演劇だけが僕を交換可能でない僕にしてくれる。そういうわけでこういうことを求めて僕は演劇をしているのかもしれません。明確に言語化してなくてもこの理由で演劇をしている人。理由のすべてではないとしても一割くらいはこのことが演劇を始めたひとはけっこう多いと思っています。

僕たちはつねに

僕たちは資本主義の中でよりよい労働者であることを求められ、交換可能な誰かとしての能力を磨いたり、交換可能な誰かとしての成果を出すことを求められます。これで孤独だったらもう最悪です。
 孤独を癒やし、自分の価値に気づくために参加型の演劇は価値を持つと思います。今日はここまで。

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