しゃかいじん たるもの
社会人たるものキチンとしておかねばならない
ぼくにとってしんどい言葉である。
だって、まずもって意味がわからない。
語のイメージがわかないとか、辞書的な意味を知らないとかそういうことではないのだ。
感覚的にパッとわかる。
それこそ感覚的に言えば「腑に落ちる」感じ、つまりは自分の中にすぅっと入ってくる感じがないのだ。
この2つの単語をじーっと眺めて見てほしい。
「社会人」「キチンと」
この2つの単語からどんなことを連想するかといえば、少なくない人数の人が「パリッとしたスーツに見を包んだサラリーマン」をイメージしたんではないだろうか。少なくとも僕はそうである。
スーツとかいう現代の戦闘服に見を包み折り目正しく行動する彼ら。
こういうふうに書いてみると嫌味のようにも思えてくるがそういうことではなくて、彼らという語を用いていることから「僕はそうではない』ということを読み取ってほしい。
僕は毎日時間通りに起きるのが苦手だった。
中学までは親に起こしてもらってたけど高校からは二週間に一度は必ず遅刻したし、大学生のときなんかはあんまりにも遅刻がひどすぎて、呼び出しを食らったりもした。
もちろん、「社会人」になることを見据えていろいろ頑張って見たのだけれど、遅刻グセは治らなかった。
しゃかいじん たるもの そんなふうではならない。
誰かが僕にこういった。
その言葉は僕を思ってのことだろう。
けれど
僕はその言葉にひどく疎外感と違和感を感じた。
社会人。
原始人は原始の人。時代区分。
日本人は日本の人。国籍区分。
つまり原始人は原始という枠組みのなかに包まれているし、日本人は日本という枠の中に含まれているわけ。
では、社会人は社会という枠組みのなかに包摂されている。
多分そうなんだらう。
労働関係の手続きで、それをこなせる人が社会に歓迎されるのだ。
キチンとできない僕はその限りではない。
いやもう本当、目も当てられないぐらい乱文になってしまったが、今の僕の気持ちを書き起こして、ここにおいておこうと思う。
悪文を読んでくれてありがとう。
おわり。
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