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元作詞家の見解「書くこと•読むこと」

noteを始めて分かったこと

先ず記憶に向き合って

 色々昔のことを書いている内にどんどん記憶が蘇って来ます。単純に忘れていたこともあれば、思い出すことを避けて、自ら蓋をしていたこともあるようです。封印したこと自体を忘れているので、蓋が開いて中身が見えた瞬間には、胸が「ウッ…」と詰まった感じになります(汗)。そんな感覚を覚えながら今改めて、やはり書き始めて良かったと思います。そして、こんな私的な内容でも、ご覧下さる方がいらっしゃることにとても驚いております。どうも有難う御座います。

書くという意味

 これまでの人生には、叶った夢と叶わなかった夢がありました。私の場合、どうしても叶わなかったことに、つい意識が向かいがちですが、改めて振り返ると、意外や色々達成もして来たことに我ながら感心します。多分それは、この場で書かせて頂くことで、自分のこれまでを客観視出来たことの顕れかと思います。叶えたことは自分レベルで事実可能なことになっていますから、ある意味当たり前になり、返って意識に上って来にくいのかもしれません。一方で叶わなかったこと、特に私のような未練がましい者にとっては、それがいつまでも意識を向けてしまう対象物になる訳です、タラタラ…と。普段、特別に意識していないことや、記憶についても書くことが諸々気付きを与えてくれています。文字に起こすというエネルギーの放出方法、その効果を実感しています。

読むという意味

読むことについては上記エネルギーを受ける作業ですが、これにも特別な力を感じます。何を読むか? その選択は観たいテレビ番組や動画にチャンネルを合わせることと同様です。しかし読むことに於いては “ながら” が許されません。少々意識をそこから外しても、映像媒体は一方的にその動きを止めませんが、文字が、即ちページが勝手に捲れてゆくことはないですよね。要するに、そこにある情報を得ようとするモチベーションをしっかり保持しなければ、読むという作業は成立しないと思うのです。受身な姿勢であることが可能か否かの違いです。更には視覚情報が無い分、受け手なりにその世界観を広げられる自由度も高く、送り手の思いや発想というベクトル矢印が太くなる程、そのエネルギーの需要と供給の関係は絶大なものになり得ます。

 お陰様で、ちょっぴり自分を賞賛出来る機会をくれた「書く」こと、多様に興味深い皆様の記事に触れられる「読む」こと…
今後もこのnoteに於いて末永く続けてゆければと思います。
いつもご覧頂き、本当に有難う御座います。


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