トーマス・マン「ゲーテとトルストイ」に関するメモ④病患による貴族性
テキストは岩波文庫「ゲーテとトルストイ」トーマス・マン著 山崎章甫・高橋重臣訳 第4刷を使用
(病患)
シラーとドストエフスキーは病人であったので、高齢のもたらす高貴さにあずからなかった。
二つの問題
①病患は、シラーとドストエフスキーの本質に深く根を下している。シラーとドストエフスキーのタイプの必然的な特徴的な付属物のように感じられる
②シラーとドストエフスキーのある種の貴族性、高貴さを作り上げているもの、あるいはそれを表現しているもの病患であるように思える
病患による貴族性は
「自分自身に対する愛とは、神々の寵児がみずからその担い手と感じている高い恩寵の神秘や、実体的な卓越性の神秘、危険な特権の神秘に対する素朴で誇らしい関心であり、また、いかにして天才が生成されるか、いかなる奇蹟によって恩寵と幸福と業績とに、分かちがたく結びあわされていくか、それらをきわめて神秘的な経験に照らして実証しようとする欲望」(29ページ)
というような自己充足感や自己自身に対する愛から生ずる自伝的な貴族性とははなはだしく異なっている。
シラーとドストエフスキーの貴族性は人間性のまったく独特な性質の深化、高揚、強化を意味している。
病患こそが一段と高められた人間性の貴族的な属性となっている。
ここで「自然=高貴性」という図式は崩れる。自然がそのいとし子い与える高貴性とは別の高貴性が存在する。
人間の価値の高め方には2通りある。
①自然の恩寵によって、神的なものへと高められる方法
②自然に対立し、自然からの解放と自然に対する永遠の反逆とを意味する他の力による恩寵=精神の恩寵によって聖なるものへと高められる方法
(47ページ)
①②どちらの貴族性・方法がより高貴なのかということが「貴族的な課題」
優劣の序列という貴族的な問題、即ち高貴さの問題は別の人物たちを組み合わせる場合、聖なる人間性を対立的な「と」を媒介として神のような人間性と対置する場合に、初めて問題となる。「どちらがより高貴であるのか、誰がより高貴であるのか」という美学や道徳の問題が生じる。こうした価値の問題は、つねに個々の人の趣味に従って、個々の人が人間性についてどのような概念をもっているかによって個々の判定が下されるべきである(19ページ)
「病患の哲学」
病患は人間的なものと、人間の尊厳とに対して2つの顔、二重の関係をもっている
①病患は肉体的ものを過度に協調することによって、即ち人間をその肉体に立ち帰らせ、投げ返すことによって、人間的なものを失わせる作用をおこし、人間をたんなる肉体にひきさげる→病患は人間の尊厳性に敵対する
②精神と病患の二概念は深く関連しあっている。精神=誇り、自然に対する解放者的な反抗、自然から分離、離脱、疎隔
人間=自然から高度に解き放たれ、極端に自然と対立しあっているものと自ら感じている存在
この人間を、他のあらゆる有機的存在からひきはなし、きわだたせているものが「精神」
精神と病患は深く関連しあっているので、病患を高度な人間にふさわしい現象と考える事も可能
(48ページ)
「貴族的な問題」
人間は自然から解き放されていればいるほど、即ち病気であればあるほど、いっそう人間らしくなれるのではないか
病患=自然からの離反
ヘッペル(ドイツの詩人1813ー1863)「人間も神の痛める指ではないのか」
ニーチェは人間を「病める動物」と呼んだ。
それは、ニーチェが「人間はまさしく病んでいる時にのみ動物以上のものである」と考えていた。
ということは「精神のうちに、即ち病患のうちに人間の尊厳さがあるということ」になる。
病の守護神は健康の守護神よりもずっと人間的である。
その理由
①健康の貴族性も病患の貴族性も両方存在するので、
「病患」を哲学的術語として用いる場合、否定の判決でも有罪の判決でもなく「健康」という判断とまったく同様な承認をふくんだひとつの確認にすぎない
②ゲーテはシラーの「情感的」という概念を「病患」という概念と同じものと考えていた。
素朴的=健康なもの=古典的=客観的なもの
情感的=病的なもの=ロマン的=主観的なもの
とゲーテは分類した。
「ある人間が精神的な主体として自然の外に立ち、こうして自然から精神を情感的に分離し、自然と精神を二元論的にとらえることのうちに、自己の尊厳と貧困とを見出すならば、私たちはこの人間をただちにロマン的存在と呼ぶことができます」(50ページ)
ロマン的存在は*自然は幸福のものであると理解しながら、病患・精神によって自然から離反している*という悲劇的な二律背反にまきこまれて苦悩する
人間は不幸であるが故に人間を愛する、人間に対する愛はすべて、人間のほとんど絶望的に苦しい状況を、共感をもって、兄弟のように分かちあいながら認識することにもとづいている
(参考)
「シラーは その“Uber naive und sentimentalische Dichtung”に於て,“真の天才はすべて素朴でなければならない。素朴でない天才は存在しない。”と断定 し,更に“知的なもの及び美的なものに於て素朴であるということは,道徳的なものに於て素朴であることを否定し得ない。”といって,天才に於ける自然的完全を称揚しているが,一方ではすでに分裂化され意識化された,即ち自然を喪失して近代化された情感的人間に対して,或る高い可能性をも示唆している,即ち,“もはや自然に代ろうなどと思うべきではないが, 君の胸の中には自然を受け容れ,又その無限の特色を君自身の無限の特権と結びつけ, そしてその両者から神的なものを産みだす様な努力はすべきだ」(ドイツ・ロマン派とシラー 大田哲夫)
「Fr.シラー(Schiller, Friedrich 1759-1805)は詩人を二様のタイプに分け、「彼らは自然であるか、あるいは失われた自然を求めるかのどちらかである」(NA 20,436)と解し、前者を素朴詩人(der naive Dichter)と呼び、後者を情感詩人(der sentimentalische Dichter)と呼ぶ。そしてシラーは素朴詩人の典型を古代の詩人(der alte Dichter)に、情感詩人の典型を近代の詩人(der moderne Dichter)に捉えて、「古代の詩人は自然によって、感性的自然によって、生き生きとした現在によって私たちを感動させ、近代の詩
人は理念によって私たちを感動させる」(NA 20,438)と説く。同様な論旨である次の言葉も挙げておきたい。
あの自然の単純な状態、つまり人間の全ての力が同時に、また調和的統一として働き、それ故に彼の自然の全体が現実のなかに完全にあらわれている状態では、現実のできるだけ完全な模倣が詩人を作ることになり―それに対して文化の状態では、つまり人間の全自然の調和的な協働が単なる理念である状態では、現実を理想に高めること、あるいは同じことだが、理想の表現が詩人を作ることになる。(NA20,437)
そしてこの区分は人間一般にも当てはめられる。つまり、人間のタイプを素朴で自然な存在と情感的な存在に分け、古代人(古代ギリシャ人)や幼い子供を素朴で自然な存在と捉え、それに対して近代人や理性の覚醒に至った人間を情感的な存在と解する。また、この区分は、ゲーテ(Goethe,Johann Wolfgang von 1749-1832)とシラー自身の相違を意識したものである。シラーは、ゲーテを詩的天分に恵まれ、素朴で自然な存在性を留めている詩人とみなし、彼自身を不断の努力のなかから詩的創造を生み出し、失われた心の全体性を追い求める存在、情感的な存在と解する。
註 次の略語を用いている。なお、これらの書籍からの引用と参照箇所については、文中
に記す。なお、略語に続く二つのアラビア数字は、順に巻数と頁数を示す。
NA: Schillers Werke, Begründet von J.Petersen, Weimar(Nationalausgabe) 1943ff.」
(Fr.シラーと啓蒙の精神 松山雄三)
(参考)(訳者による解説)
イロニー 生のためにする精神の自己否定
生=ハンス・ハンゼンとインゲボルグ・ホルム
精神=トニオクレーガー
「生が精神の側に歩み寄ることが決してないことを知り尽くしていながら、激しく生に憧れ、生を描き形象してゆくことを自己の使命としようとするトニオクレーガーの考え、生き方がイロニー」
シラー「素朴なるもの=自然」「情感的なるもの=自然を求める努力」
「自然=マンのいうところの生」
「自然=ゲーテ・トルストイ」
「精神=シラー・ドストエフスキー」