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歴史がもれだしてきている~小川哲「地図と拳」を読んだ感想

レースに負けて帰ってきて、この本を読んだ。

小川哲「地図と拳」

レースに負けたくだりは少し前にnoteに書いたので詳しくは書きません。

レースから帰ってきてすぐに風邪をひいてしまったので、リタイヤしたもやもやを練習で忘れることもできず、家でひたすら鼻をすすりながら過ごしていた。

仕事するか本を読むかくらいしかやることがなかったので、レース前から読んでいたエラリークイーンの「ローマ帽子の謎」に戻ろうかなとも思ったのだけれど、こういうときには頭を使うより心を鍛えるような本が読みたいなと思い、長らく積んであったこの「地図と拳」を手に取ったのだ。

歴史とは地図である

「地図と拳」は、日露戦争にかろうじて勝利した日本が、勢いと焦りとにまかせて領土を拡大していく中、ソ連をけん制しつつ満州に傀儡国家を作る話だった。

『歴史とは地図を作ることである』 文化や宗教、政治なんかは目に見えないけれど、地図だけは目に見えるし国が滅んだ後も残るから。

「地図と拳」は、史実もふまえているのだけれど、完全なドキュメンタリーではなく、歴史に暗躍する人々の生き様を軸にしたエンタメ小説になっていた。なので読みやすい。鼻水をすすりながらでも3日くらいで読了できた。

小川哲さんの小説は「ゲームの王国」がとにかくすごかったので、同じように途中から急展開があるのかなと身構えていたのだけれど(ゲームの王国は上下巻でまったく別の話になります)今回はそんなことはなかった。

国家や政治や戦争というのはいつも理不尽なものなので、その中で生きていくには「うまいことやっていく」のが正解なのかもしれない。

それができる魂を持つ人たちもいれば、自分の中にある正義を捨てきれずに悩む人たちもいる。作中ではたとえば細川が前者であり、孫悟空が後者なのだろうか。自分ならどっちだ。

もしも小説たちが裏でつながっていたら

話は変わるが、小説家の西加奈子さんがなにかのインタビューで、書店に並んでいる小説たちが、描かれていないだけで実は裏でつながっていたら面白いよね、みたいなことを話していた。たとえば「地図と拳」に出てくる細川が、じつは漱石の「ぼっちゃん」の行く末だったらおもしろい、そんな感じだろうか。それは確かにおもしろい。

だとしたら読者を媒介にして、僕たちの住む世界と小説の世界とがつながっていたとしてもおもしろいんではないか。

僕がこの前レースでリタイヤを決めた峠は、じつはエラリークイーンが「ニッポン樫鳥の謎」で歩いた道だったかもしれない。だとしたらあのリタイヤにも意味があったのかもしれないだろう。

このくらい僕はいま自己肯定感に飢えています。

ともあれ

小説は娯楽なので、読むことによって何が変わることもないだろう。だけど少なくとも小説を読んでいる時間は、知らない人の人生を体験して、知らない世界を覗くことができる。

これは旅をするみたいなものだなと、いつも僕は思っている。100冊読めば100通りの知らない人生を体験できるのである。最高にお得だ。

話が逸れたが、僕が「地図と拳」を読んでいたとき、中国のある町で日本人学校の生徒が襲われて亡くなるという事件が起きた。

もちろんこれは現実に起きた悲しい事件であり、これを引き合いに出して何かを語るつもりはないのだけれど、「地図と拳」をはじめとした、先の戦争について書かれた小説を読んでいると、なぜ日本と隣国とがいまだ仲良くできないのか、なぜ21世紀になっても戦争がなくならないのか、地下深くに張りめぐらされた憎しみの根みたいなものの存在を、否応なしに想像させられるのだ。

小説が読者を介して現実世界へと広がり始めているのかもしれないし、歴史が小説を介して読者に語り掛けているのかもしれない。

鼻水をたらしながら、そんなことを考えた読書でした。


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安藤昌教
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