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日本人はトイレの個室で神に祈る

これは、無意識に行っている行動に対する
仮説の話である。




ひどい腹痛だ。
私はこの短時間に何度、トイレに座しただろうか。

痛い、苦しい、なんでこんなことに。
私は気が付けば頭を垂れて、その上で手を握り合わせていた。

神よ、私はなにか悪いことをしたのでしょうか。気づかぬうちにあなたの逆鱗に触れてしまったのであれば、なんでもしますので、どうか許してはいただけないでしょうか。





始まりは、些細なことだった。

私は、退勤時に送る報告のメールの中で、年末年始に生ガキを食べて見事にあたってしまったことを書いた。せっかくなので、少しユーモラスにしたくて「何度もトイレで神に祈ることになりました」といった旨の一節を加えた。

その後の喫煙所で

私は無宗教だ。

実家の仏壇の前で線香を焚いて、手を合わせるが習慣で行っているだけでそこに信仰はない。

同僚との会話が頭に残っていた私は自宅に帰って、パソコンを叩いた。

Googleさんの調べによると、日本人の6割以上は無宗教だ。社会主義国・旧社会主義国を除いた場合に最も無宗教の割合が高いのはなんと日本だそうだ。

祈る習慣のない人が多数派である日本では、「トイレで祈ること」があるあるネタになっている。なんとも不思議な話だ。

痛みから逃れたくて、何かに救いを求めるという行動には、一定の理解ができるが違和感が残る。

この時は違和感をそのままにしてしまったが、後の事柄に同僚とのやり取りが関係してくることとなった。




私は仕事で、アンケート調査を行うためにとある大学に訪問していた。

外部からの来訪者に学生は少し硬い顔をしていた。
私は人相が悪いらしく、こういったファーストコンタクトは慣れっこだった。

調査といっても皆さん緊張することはありません、ただ正直に答えてくださいね嘘はいけませんよ。例えば皆さんは酷い腹痛に悩まされてトイレの個室で神に祈ったことはありますか?というような質問があった場合はイエスと答えてくださいね。

と、下らないジョークをアイスブレイクのつもりで言った。

多くの日本人学生がクスリと笑みを浮かべる中、気になることがあった。一部の外国人留学生たちはポカンとしていたのだ。

同僚とのやり取りが頭をよぎった。

私はハッとして、気が向いたらアンケート用紙の最後の空白に、先程の質問のイエスノーを書いてください、と笑いながら冗談半分の様子で伝えた。

学生たちは笑ってしまうほど真面目で、想定よりも多く回答をもらうことができた。大学を対象としたアンケート調査の業務は、まだ何十件と予定していたので

私はこの先の訪問でも、毎回このやり取りを行うことを決めた。

:出身国(その国の無宗教の割合):YES:NO:回答の差異

有らぬ誤解を与えぬよう国名は伏せさせていただく

調査結果は、スプレッドシートに都度集計を行った。
1年間の集計結果は、統計データを出せるような母数ではないにしろ、分析を行うには十分な量であった。

回答の差異の結果

やはりそうだったか。

無宗教の人の割合が高い国は
トイレで神に祈った人の割合も高い。





1年間のアンケート調査の結果は、恐らくこうなるだろうと予想がついていた。なので、私は並行してこの「トイレで神に祈る」問題に対して別の視点でのアプローチを行っていた。

その一つが、

何故、祈るという行動を選択するのか

というものだ。

腹痛に耐え凌ぐ手段として神に祈りなさいだなんて教育を受けた経験はない。他の選択肢はなかったのだろうか。

肝となるのは、腹痛。つまり痛みだ。

腹が痛いときには腹を手で押さえることを思い出して、痛覚と触覚に関して調べた。これに関しては調べればアッサリと答えは出てきた。

この患部を抑える、という行動は

実際に「痛みが和らぐ効果がある」のだ。

調べた内容を簡潔に説明していく。

痛みを伝える神経よりも、圧覚・触覚を伝える神経の方が太いため、より強い刺激(電気信号)を脳に伝えることができるからだ。

これにより脳はより強い刺激を感知するため、痛みが和らぐのだ。

これは痛みを訴える患部に対する圧迫に限定された話ではない。

手をギュッと握りしめたり、目を思いっきり瞑ったり、歯を食いしばったり、と要はなんでもいいので強い圧迫を行えばよいのだ。

そう、祈りを捧げるようなあのポーズには痛みを和らげる効果がある、といえるのだろう。






ちょっと待てよ。


痛みを緩和するための圧迫行動に祈り以外の選択肢はないだろうか。これには明確な答えは出てこなったものの、自分なりに納得のいく仮説を記す。

「個室トイレ」という環境がそうさせているのだ。

実際に痛いのは、腹部や肛門だが腹部を強く抑えながら排泄を行うのは容易ではない。私も実際にやったがうまくきばれないのだ。

肛門を抑えながらだなんてもちろんムリだ。またトイレという衛生的でない環境で、手で体のどこかを抑える、というのは憚られる。

いずれは綺麗に洗う手と手で、というのは実に合理的ではないか。

痛みを和らげるために、自然と神に祈るかのようなポーズになっていた。そこから、神へ祈る、という発想が浮かぶのは自然なことかもしれない。

・・・?

神へ祈る、という発想が浮かぶのは自然だが
その発想に行き着き易いのは、宗教を信仰している人の方がより自然ではないだろうか。





1.無宗教な人ほどトイレで神に祈りやすい

2.そもは痛みの緩和が目的で、祈りに至ったのは発想である

矛盾めいたものを感じる、1.信仰心の厚い人ほどトイレで祈りやすいであれば納得感があったのに…

この違和感を解決するには「宗教を信仰している人」を対象に、「トイレで神に祈るか否か、祈らないのであればそれは何故か」を問うしかないだろう。



幸い仕事柄、外国人との交流は多い。個人的な好奇心がために職権乱用さまさまである。まぁ、やるべきことはやっているので許してもらいたい。

とはいえ、ビジネスと比べればあまりにも下らない話なので、利害関係のない世間話ができる関係構築と、質問に至るまでのプロセスには骨が折れた。

得られた回答の中には

と笑って答える人もいた。

しかし、多くの人たちは二つの意見に分かれた。

トイレのような不衛生な場所で神への祈りを行うべきではない

腹痛といった些細なことで神聖な行為を用いるべきではない

灯台下暗し、といった気分だった。考えてみればそりゃそうだよな、と納得してしまったが、無宗教な人間にはない発想だったかもしれない。

祈りは軽薄なものでない
当たり前のことだった




これで仮説を立てるには十分な材料が揃った。

なぜトイレの個室で神に祈るか。
なぜ無宗教の人ほど、神に祈りを捧げていたのか。

それは

ということである。

神への祈りは神聖なものなのだ。

※これはあくまで私個人の見解であり、特定の宗教・団体・国に対する意見、主張を目的としたものではないことをここに明記する。

***

***

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フゥ~~~~…

いやー、今回の波は相当キツかったなぁ…
痛すぎて適当なことずっと考えてしまったわぁ

なんだよ無宗教だからトイレで神に祈るって(笑)
祈ってる暇あったら正露丸飲むわ

そもそも俺は外国人と仕事なんてしたことないし
英語は喋るどころか読み書きもできませんよ(笑)

いやーでもちょっとマジ感あったよなぁ…
Twitterにでも書いてみようかな…








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