7/27大和八木札の辻歴史塾「松本奎堂・池内蔵太の新事実~江州大津での天誅の関与」
2024年7月27日(土)大和八木札の辻歴史塾に2回目に参加してきました。
講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。
前回の内容はこちら。
文久3年(1863年)不平等条約破棄のため、徳川家茂(いえもち)は将軍として229年ぶりに上洛をした。
4/20に5/10を攘夷期限日とすることが決まった。(国交断絶の交渉を開始する日)
毛利家は暴走し、5/10~6/5まで5回にわたり異国を相手に下関戦争を起こした。
中山忠光は数回下関戦争に参加した。(公家で異国との戦争に参加したのは一人。忠光には実行力があった。)
文久2年(1862年)生麦事件が起こった。
不平等条約とは別にこちらの処理をする必要性があると感じたので、小笠原長行(ながみち)は幕府に無断でイギリスに賠償金を払っておさめた。
上洛した家茂は当初10日ほどで帰る予定だったが、数ヶ月長引いた。
家茂を江戸に帰すため、小笠原長行は千数百名を引き連れて海路で京を目指した。
家茂の命によって淀で止まったが、京はパニック状態になった。
(上洛が長引いたことによって一緒に来た大名たちは江戸に帰り、軍が手薄になっていた。中村先生は大名の動きを研究することによって見えることがあるのではとおっしゃっていました。)
親長州の在京浪士たちも平常心ではいられず、小笠原勢の入京を阻止するために伏見へ向かった。
この中に池や吉村虎太郎などもいたらしい。他に土佐出身者では上田宗児、土居左之助も。
結局小笠原のクーデターは失敗したが、池ら浪士はこれで終わらず、長州へ下った。
同文久3年6月4日、小笠原長行勢が山城淀に入った同じ日、池内蔵太(いけ くらた)は長州へ向かうために離京した。
毛利慶親らに上京を求めるためである。
これに吉村虎太郎、土居左之助、上田宗児、松本奎堂、宍戸弥四郎、伊藤佐右衛門、竹下熊雄、清水真卿、池尻作蔵も同行した。
6/17毛利慶親に会えたが、「下関戦争の最中なので離れられない。代理を立ててるのであきらめてほしい」とのこと。
池らは承知して退出した。
坂本龍馬は池の母に池の行動に理解を求めるよう、手紙を書いている。
龍馬はこの時体調が悪かったそうだが、無理をして自分の姉より先に池の母に手紙を書いていた。
矢嶋一件への関与
7/14までに一行は京都へ帰ってきた。
京都の長州屋敷には浪士をかくまうために長屋がいくつかあった。
その7番のお世話係に松本奎堂と池内蔵太がお給料をもらって任されていた。
松本奎堂はその時すでに有名人だし、池より9歳上。
中村先生は池は天誅組では側用人とされていたが、三総裁の次くらいの人物だったかもしれないとおっしゃっていました。
8/3池と松本奎堂は大津に行った。
当時、大津は越前の物資を琵琶湖を使って運び、貯蔵する蔵屋敷が多くあった。
そこに矢嶋藤五郎の家があった。
その地域では有名人。
越前を治めていた松平春嶽は京に行く際、矢嶋藤五郎の家に宿泊していた。
8/2矢嶋藤五郎の家を素性不明の帯刀人およそ20名が襲ってきた。
藤五郎は外出しておりいなかったが、浪士は家中を探し、帳面類を持ち帰ったそう。
矢嶋藤五郎が松平春嶽に「取引・出入」していたため、その関係品を持ち帰った。
その後浪士たちは大津宿の人馬会所へ向かい、「高札に張り紙をしておいた。これの番をせよ。もし剥がす者があれば制し、もし手に余ったら支配(大津代官所)へ連絡して取り押さえよ」と大声で役人に言った。
「越前にいたる道中(の宿場)に対して張り紙を守護せよ。もし背いた場合はお前たちも(越前家中と)同罪にするぞ。」と述べ、最後に浪士たちは京都方面に去った。
張り紙の内容は以下。
「当宿内の矢嶋藤五郎は、朝敵松平春嶽にくみし、公然と交易し、国家の大事を内通し、寄宿等を許し、種々奸計を助けたことは不届き至極である。それゆえ天誅を加え、蹴上(粟田口刑場)に梟首する。その他、越前(往環の)道中の宿々でも春嶽と同類の者たちの寄宿を許すなら同罪に扱うものとする」(意訳)。
未遂に終わった殺害を記しているのは、京都出発前に用意していたからと思われる。補足の一文。
「右の者は(今回)たまたま天誅を免れたが、この世にいてはならない極姦であるので、以後発見次第、天誅を加える」
この矢嶋一件に池内蔵太と松本奎堂が参加していたのは明らかであるし、他の浪士の中に天誅組参加者がいるかもしれないそうです。
天誅組には多くの地域から教養ある優れた人物たちが参加しています。
ですが、その動きはかなり水面下で行われていたそうです。
大和行幸は八幡行幸から一日で大和に変更されましたが、河内では武器と旗がすでに準備されていました。
天誅組の動きが他に知れたのは大坂あたりからだそうです。
なぜそういった面々が集まったのか、今後のご講演でさらに深掘りされるそうです。
次の大和八木札の辻歴史塾は9/28(土)、11/23(土・祝)
矢嶋一件の前の部分もそうですが、日本の重大事件に天誅組メンバーの名前がちらほら出てきています。
中村先生は坂本龍馬も天誅組に参加したかったのではとおっしゃっていました。
天誅組についてまだ少ししか勉強できていませんが、情報操作にかなり長けていたような印象を持ちます。
今までは幕末のあまり知られていない出来事としか思っていませんでしたが、実は天誅組はものすごい組織のような気がしてきました。
その一番重要な地域である東吉野村の者として、かなりの重圧を感じています。
大和行幸以前の日本の動きについてもっと勉強せねばと思いました。
それと同時に、村人に語り継がれている地元ならではの情報を知る必要性を痛感しました。
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