鍋島米之助戦死地の碑(東吉野村天誅組紀行)
島村省吾捕縛地への道の入り口近くに鍋島米之助戦死地の碑があります。
東吉野村ガイドより引用
鍋島米之助は、高知県土佐郡潮江村(高知市潮江)に生まれる。
性質が温厚で口数はあまり多くないが、事にあたっては談論風発、あたりを圧する憤慨義節の勤王の志があった。
同郷の同志楠目清馬(桜井市倉橋で自刃)と意気投合して常に行動をともにした。
文久2年(1862)脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わり尊王攘夷運動に身を投じた。
同3年8月、吉村寅太郎らが大和に挙兵すると、那須信吾、森下幾馬、楠目清馬らとともにこれに加わった。
9月24日夕、米之助は、那須信吾、宍戸弥四郎、植村定七らとともに、鷲家口突入の決死隊に加わり彦根藩陣屋を襲撃した。
出店坂まできた時、不意に四方から狙撃され銃傷をうけたが、それにも屈することなく鷲家口を斬り抜け鷲家谷の一ノ谷まで逃れ、西峯宅の納屋に潜んで傷の手当をしていたところを彦根藩兵に包囲され、刀を振るいおどり出て戦ったが銃殺された。
遺骸は小川の明治谷(みよじだに)に埋葬されている。
天誅組も追討軍も村外の人間。
静かな村で急に激しい戦いが起こり、逃れた志士があちこちに身を潜めていました。
村人たちはどんな様子だったのだろうと思いました。
ただ、今も村民は天誅組の史跡を守り供養をし続けています。