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いつ死んでも大丈夫
「何も死ぬわけじゃない」
「命までは取られないのだから」
人が何か大きな困難に直面した時、このような慰めの言葉をしばしば耳にします。これは「生きてさえいれば、どうにかなる、何とかなる、まだやり直せる」ということなのでしょう。こう考えると、確かに生きることに希望が湧いてきて、前向きな気持ちになる人もあるでしょう。
しかし、事実として、人は必ず死にます。必ず命まで取られるのです。
これは誰ひとり避けられない命の真実です。そして、死はいつやってくるか私たちには全くわかりません。これも紛れもなく真実です。あなたも私も今夜死んだとしても、何ら不思議はありません。
だったら、いつどんな時でも、「今、死んでも大丈夫、今、命を取られても大丈夫」という心持ちに予めなっておいたほうが、合理的に考えて良いと思いませんか?
少なくとも、「人間は必ず死ぬ、そしていつ死ぬかもわからない」という真実から目を背け、「まだ死なないから大丈夫」と自分に都合よく解釈した命の誤った認識を、他者と共有するよりは賢い選択だと思います。
では、どうすれば予めそのような心持ちになれるのか?
「毎日ベストを尽くして生きる」という答えもあるようです。なるほど、もっともらしく聞こえます。しかしそれは、いつ死んだとしても後悔のない生き方ではあるのかもしれませんが、それで本当に大丈夫と言えるのでしょうか?そもそも命というものを、自分が生まれてから死ぬまでの時間のことだと誤って捉えているから、このような考えが出てくるのかもしれません。
私がここで言う「いつ死んでも大丈夫」とは、死ぬときに人生に悔いが残るか残らないか、そんなことを問題にしているのではありません。生死を超える世界に出合ったかどうかということを言っているのです。それは、たとえ死ぬときに人生に後悔があったとしても大丈夫と言える世界なのです。そしてそれは、宗教的関心を出発点としなければ、絶対に見えてこない世界なのです。
南無阿弥陀仏