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運転席の向こう
夕方にさしかかろうとした地下鉄の駅。
次の客先に向かうため、改札を抜けた。
長い下りのエスカレーターに乗ると、前には、一組の男女が立っていた。
「なぁ、どうして前に行くんだ?」
「今は前に行きたいの」
「後ろの方が便利じゃないか」
「いいの。前に行くの」
「たまには言うこと聞けよ」
「あたしの言うことを聞いてちょうだい」
客先のある駅に行くためには、先頭車両が一番近い。
下りのエスカレーターは、ホームの最前部に向かっていた。
エスカレーターを降り、先頭車両の降車口に歩いた。
先ほどの男女は、同じく先頭車両の、先頭のドアの降車口に並んでいて、ちょうど後ろに並ぶ形で私も並んだ。
「どうするんだ、こんな一番前で」
「運転手さんの窓から前を見たいの」
「はぁ?」
「そういう気分なの」
「だって、地下だから何にも見えないぞ」
「見えなくてもいいの」
「意味わかんね」
「いいから、ここで待つの」
やがて電車がホームに入り、ホームドアと電車のドアが開いた。
幸運にも運転席の窓の前には誰もいない。
二人は窓の前に立った。
どうするんだろう?
興味津々、横目で二人をしっかり見ていた。
「ほんとに見るのか?」
「ウン。見ていいでしょ?」
「いいけどさ、どうやって見るんだ?」
「抱っこして」
そう言うと、おそらく幼稚園帰りか何かの小さな女の子は、父親の両腕に手をかざし、さも抱っこして当然だと言わんばかりに、真剣な目で訴えた。
女の子の身長では窓が高くて届かない。
はぁ・・・と軽くため息をついた父親は、それでも少し嬉しそうに抱き上げて、窓の向こうが見えるように身体をひねった。
「見えるか?」
「暗くて何にも見えな〜い」
「だから言ったろ」
「つまんな〜い」
やっと年相応の反応になった女の子の、父親は仕方なさそうに頭を撫で、それでも降ろすことなく、ずっと立っていた。