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「期待をしない方がいい」という態度にどのように向き合うことができるか

否定的な意味合いで語られる「期待」

 「人間関係において、期待しない方がうまくいく。なぜなら、期待することのほとんどが思い通りにいかないから」云々というような言説を最近よく聞くし、私が観測する限りどうも一定の支持を得ているように感じる。
 これの変種として「うまく人付き合いしたいならそもそも他者に期待するな。自分でなんとかできるようにせよ。」というある種の処世術として語られることもあれば、「期待することが人間関係がうまくいかない原因だから、そもそも期待すること自体が間違ってる」というように問題自体を無かったことにしてしまおうとする論法を採っていることも見受けられる。いずれにせよ「何かしらの期待すること」がネガティブな文脈で語られている傾向が強いと思う。
 あるいは、「他者への期待は自己の欲望の投影だ」とする向きもある。確かに、「他者にこうあってほしい」というのは、自分自身が価値を置くものや当然こうあるべきだというものが前提となっているはずで、そもそもそれがないと他者への期待は生まれ得ない。この期待がその通りに行くと人は安心するし、裏切られると怒るし、それが行き過ぎるとパワハラになる。人は自身の欲望の投影を通じて指導や教育を行っていることがほとんどなのかもしれない(それが「教育」と言えるかどうかはさておき)。

 とはいえ、全く期待しないことなんて無理だし、期待通りにことが運んだら嬉しいのもまた事実。そもそも人は色んな意味で「期待」しているのであって、それらの問題をなかったことにしたり、代替手段を用いて期待することを棄却してしまおうとすること自体、個人的には処世術としてはまだまだ甘いのではないかと感じてしまう(例えば明日旅行に行くとして、一般的に「晴れてほしい」と期待したり、暗黙的に「電車が通常通り運行されてほしい」「友達が事故や病気なく無事に旅行に来てほしい」と思っていたりするはずである)。現代の「問題から逃げることで問題を無かったことにする」傾向がここにも現れているように感じる。

「期待しない方がいい」として、それはどのように体験されるのか

 仮に「期待しない方がいい」という価値基準を採用するとしたら、それはどのように体験されうるのか。そのためにまず「期待」という心的過程について紐解くことからはじめなければならない。
 「期待」は、(1)自己の意図(こうしてほしい・こうあってほしい)、(2)他者の汲み取り(「こうしてほしい」ということなのかな)、という意図のやりとりがあったのち、(3)他者の行為、(4)他者の行為の結果の解釈、という段階を踏む。例えばこんな感じ。(1)この仕事を5月26日までにやってほしい、(2)(5月26日までということは、5月26日の23:59までなのかな…)「了解しました」、(3)5月26日の23:30に仕事完了の報告、(4)(確かに5月26日だけど、もっと早く終わらせてほしかったな…)「ありがとう」、など。
 ここで「指示をはっきりさせるべき(1の部分)」、「曖昧な部分を確認すべき(2の部分)」「完了までにこまめに報告すべき(3の部分)」「相手の気持ちを害さないようにフィードバックすべき(4の部分)」など、巷にあふれる自己啓発本から大量の指摘が入るが、それらはどこまでいっても(有効かもしれないが)処世術であって、「期待することは一体どういうことなのか」ということへの回答になっていないばかりか、微塵の示唆もない。また、「そもそも任せずに自分でやればいい」というのは、問題をなかったことにしようとするだけで、期待してしまうという人間の本性に対する問いに正面から全く向き合っていない。

 「期待」という観点に立脚するのであれば、「他者の心的過程で何が生じているかをどこまで知りうるか」という論点に帰着する。5月26日というのは、特定の時刻を指すのか否か、5月26日までという期限をもってして何を実現したいのか(本当は5月28日だが早めにチェックしたいのか、云々)、などなど。「期待しない」という態度は、「他者の心的過程を知ることが不可能なので、それを当てにしない」という態度である。この態度から導き出されることは2つの類型しかない。

  1. 制御不可能な他者に頼らず、すべて自分で完結させる

  2. 他者をできるだけ制御可能にするために、期待の解像度を高めてできる限り言語化する

 特に(2)については一般的に推奨されている処世術?のようなものに思えるし、ほとんどの場合これが有効であることが容易に想像つく。具体的な時刻を指定することや、その背景の意図を丁寧に説明することで、コミュニケーションしやすくなるし、もしかしたら「チェックを詳細にしてほしいので5月25日にさせてください」のような別の可能性を見出すこともできるかもしれない。
 しかし、上記のように論理的に考えられる場合はよいかもしれないが、そうではない場合はどうか。例えば「私の気持ちをわかってほしい」という期待。それに対して「あなたがいう「悲しい」とはどんな意味か」「なぜわかってほしいのか」と問いかけても、会話が成り立たないことが多い(と個人的に思っている)。「論理的に自己の心的過程を伝え得ないとき、他者に期待することにどのように向き合うべきか」というのは、多くの人にとってかなりの程度核心的な問いなのではないかと思う。

 この問いを具体的に語っている哲学者の1人がヴィトゲンシュタイン。「ラスト・ライティングス」という遺稿集の最後に、こんなことを書き残している。

 「他人のなかで何かが生じているかを知ることの不可能性とは、物理的な不可能性なのか、それとも論理的な不可能性なのか。そして、もしその両方であるとしたら、ーその二種類の不可能性は互いにどう関係しているのか。」
 差し当たり言えるのは、他人[の内面]を探究する可能性を想像することができるが、その可能性は現実には存在しない、ということである。それゆえ、物理的な不可能性が存在する。
 論理的な不可能性の方の内実は、証拠にまつわる正確な規則が欠けていることにある。(中略)我々はある算術を想像することができるだろう。その算術を用いた場合、問題に出てくる数が小さければ確実に解くことができるが、数が大きくなればなるほど答えが不確実になるのである。そのため、この計算技術を有している人々は、二つの大きな数の積が何かということを人は決して確信できない、と説明する。また、小さな数と大きな数の境界を定めることもできないと説明する。
 しかし、もちろん、他人の心的過程について我々は決して確信できない、というのは正しくない。数えきれないケースで我々は確信しているのである。
 そして、いま残されているのは以下の問いである。我々の言語ゲームは「計量不可能な証拠」に基づき、しばしば不確実性へと導くものであるが、もしもそのゲームを、概して似た帰結をもたらすようなより正確なものに置き換えることができるとしたら、我々はその自分たちの言語ゲームを放棄するだろうか。我々はーたとえばー機械的な「嘘発見器」を用いて活動し、嘘発見器のメーターの針に振れを発生させるものとして、嘘を新たに定義することができるだろう。
 それゆえ、問いは次のようになる。我々は、そうした機械を自由に使えるようになったとして、自分たちの生活形式を変えるだろうか。ーそして私は、この問いに対してどう答えられるだろうか

LW-2: 96/410

期待への裏切りを可能性と信じることはいかに可能か

 期待することをやめるという態度を採ることも、期待をできるだけ精緻化して制御可能にする態度を採ることも1つの生存戦略かもしれないが、そもそも期待することは何かという視点から考えたときに、まったく違った世界の見え方がするのではないかという気がしてならない。それは「いい意味で裏切られた」という感覚である。
 「嬉しさ」「悲しさ」「楽しさ」「怒り」などの感情の「程度」は、ある側面では「当初の期待と現実に起こったことの解釈の差分の程度」と捉えることもできるかもしれない。「全然想定していなかったプレゼントがもらえて嬉しい」「全然期待通りにならずに心底怒っている」など。そのように考えると、そもそも感情(の起伏)を体験するための前提として、「期待」という心的過程は必要条件なのかもしれない。

 問題は、期待が前提にあるとして、期待と現実の「ギャップ」ーそれをある種の「裏切り」と呼んでもいいかもしれないーに対して、どのように向き合うことができるか、ということである。その裏切りを、否定的なものとして学習することなく、「確かにそういう考えもできるかもしれない」「そういうこともありうるとしたら、よりよくするために何ができるだろう」と発想を転換することをするために、どのような条件が必要なのだろうか。
 少なくとも言えるのは、「いい意味で裏切られた」という体験や感覚が根ざしている限りは、期待することも、期待と現実の間にギャップがあることも、一概に否定的ではないということ、そしてその感覚を起点に、期待してしまう人間の本性に立ち返って、現実に向き合う上でそれを新しい可能性と捉え直すこともまたできる、ということである。

 ヴィトゲンシュタインの「我々は、そうした機械を自由に使えるようになったとして、自分たちの生活形式を変えるだろうか」という問いに対して、どのように答えるかは人それぞれだが、少なくとも私はNoと答えたい。期待と現実が一致し続ける世界に、驚きや嬉しさ、悲しさという感情が存在する余地がどんどんなくなっていき、それらを大切な他者と共有したり、新しい可能性を探究する余地を奪ってしまう気がしてならないからである。

 他者の感情や意図がすべてわかる世界があったとして、その世界を生きるのは楽しいだろうか。私は至極つまらないと思う。大切なあの人がこれを見て何を感じるか、私はどう感じるか。ただそれを共有したい、それが喜びだからーこのような世界が失われてしまうのはとても嫌だ。
 あるいは、だからこそ我々はどこまでいっても寂しさを感じるし、寂しさに耐えられない存在とも言える。寂しさの本質の1つは、他者の意図や感情のわからなさにあるのではないか。でもだからこそ、それを起点に感情を共有し、どこまでいっても不透明な他者と生き続けたいと願う。寂しさを「なかったこと」にせず、人生の可能性として信じることはいかに可能なのかーヴィトゲンシュタインの問いをこのように解釈することもできると思っている。

私は、予見不可能性が、心的なもののひとつの本質的な性質に違いないと思う。および、表現の果てしない多様性も。

LW-2: 65/365

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