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夜汽車

 いつから待ち続けているのですか。
 女がそう問えば、黒い詰襟の学生服を着た隣の男はつ、と顔を上げる。
 黒縁の眼鏡をかけた、真面目そうな年下の青年だった。この寒空の下、上着の一枚も着ていないのは少し不思議に思う。彼はレンズの下の黒い瞳を伏しがちにし、線路のはるか向こうへぼんやりと視線を向ける。行く手は深い霧に閉ざされ、未だ次の汽車が到着する気配はない。男の声と共に、ふうと白い息が零れる。
 もう随分長い事待っている気がしますが、いっこうに迎えがこないのだ、と。
 それを聞いた女はどこか諦めたような、安堵したようなあいまいな表情を浮かべ、男の横顔を盗み見た。眼鏡が白く曇っている。女はバッグの中から丁寧に折りたたまれたハンカチを取り出すと、黙って男に差し出した。男は一瞬面くらったような顔で女を見たが、やがて頬を緩ませ、彼女のハンカチを受け取る。眼鏡をはずしたその顔が誰かに似ている気がしたけれど、思いだせなかった。
 宵のふちで踏みとどまっていた夕日が、地平線の向こうへと落ちていく。
 ドームのようにまるい天には瑠璃色が広がり、地に近いほうの空のはじからは、深海の藍色がふつふつとこみ上げ、小さな世界から赤を追いだすように染み入ってゆく。
 星はどこから湧き上がってくるのだろうねと、男に問おうかと思い、やめた。
 軽快なスローモーションで空の色が回る。どちらも言葉無く、ただそれを見上げていた。

 ふいに男がベンチから腰を上げ、ホームにぽつんと備え付けられていた自販機の前に立った。
 何かあたたかいものが飲みたくなりませんかと、背を向けたまま不愛想に言い放つ。距離を測っているようだった。けれど、その心遣いがけして嫌ではなかった。
 女も腰を上げ、並んで自販機の前に立つ。遠目ではライトが眩しくてよく見えなかったけれど、大好きなコーンポタージュの缶が並んでいた。学生の頃、寒い冬の帰り道によく飲んだよねと、こそばゆい懐かしさに笑んでボタンを押す。男を押しやり、ポケットに残っていた小銭を入れて、もうひとつ。
 そんなに好きなのですかと問う男の胸に缶を押し付けた。
 ふたりで飲むものだから、と。
 男はそうですかと目を伏せた。それ以上はなにも言わなかったけれど、ほんの少しだけ寂しげに見えた。

 ゆっくりと線路が震えた。ああ、汽車が来る。
 コーンポタージュは暖かく喉を満たし、そのまま胸の中にすっと溶けていく。
 星が綺麗ですねと、男は最後に言った。いつまでも、いつまでも、女が汽車に乗って行ってしまっても、男は空を見上げていた。スープを飲み終えた缶に残るぬくもりの最後のひとしずくが消えるまで、大切に握りしめながら、男は次の朝を待っていた。

(2012/12/11)

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