つめたいくらげ
****、なんて言葉は口約束にもならないなんて、ずっと昔から知っていた。
馬鹿みたいに軽々しい風が肩のとなりを通り抜けていく。いくら高い塀のうえに居たって、空に近づけたなんてちっとも思わない。質量を持たないたった一言の****、にすがったばかりに、私はここに立たされている。
地上を満たす真っ黒な闇の塊は、たしか水という名を与えられたものだった。ぽかりと寂しく漂っている光の寄せ集めはただの月だったか、無様に水底を這いまわる深海魚の翳した提灯なのか、或いは透明な舟が掲げるともしびなのかもしれない。引き摺りたいからだは夢を見ることだけは自由にできていた。
とにかく私は眠くて、眠くて、それすらもよくわからないのだけど、あえてどれかというとたぶん、舟だったらいいと思っている。
針のような雑草がはびこる地上は、嘘吐きにやさしくは出来ていない。透明な船に乗って、私の月まで帰れたらいい。家族がいて、友達がいて、恋人はきっといない月に。我儘なんていわずにちいさなお座敷に閉じこもって、大河のような夢を見る作業に月日をついやしていければ、ようやく解放されるのだろう。重力を埋めればまともに歩けるのだろう。孔だらけの足を真っ直ぐに踏み出して、ほら、こんな風に、私は自由に歩ける。
ぱっ、と。
音はしなかった。
月がさかさまになった。
私のからだを受け止める真っ黒な水が、冷たくないことが心外だ。生ぬるくて、もやもやして、こんなこんな体温みたいな闇に抱かれて、とても私は沈んではいけない。
もっともっと惨めにさせてよ、月明かりすら届かない海の底に沈んで、帰れない月を想いながら名前も知らないひとを呪うの。私を憐れんでくれるのなんて、どろどろに腐りきった魚の死骸だけで充分なのに。
ぼんやり、ぼんやりと、ぼんやり浮かんだ私のからだは、ゆらゆら流されて虚像の月に触れる。ああ、やっぱり舟なんかじゃなかった。私に迎えはこない。ぼんやりと生温い無重力の中で、沈んでもいけずにいつまでも漂っているだけだ。
私の器にはきっと沈むだけのものが入っていないから。無責任に与えられた微小の愛は、やっぱり私だけの黄金なんかじゃなかった。この瞬間まで、そしてこれから延々と続いていく瞬間のなかでもきっとずっと、私はそれを疑いもせず大事に抱えているふりをするだろうけど。
ほんとうは何かを見る事がこわくて天上の月を扇ぎ続ける。
真っ白なくらげが月の光で輝いている。
ねえお願い、かぐや姫にならせてよ。
せめてあなたが柔かな綿だったなら、私の闇を吸い込んでずぶずぶと沈んでくれたろうに。私の抱え込んだあなたはぷかぷかと浮くだけの空気に他ならない。宙の上ならそれすらもないのでしょう。傷つくことなく窒息していきたい。私を攫ってくれるものはこの黒い海の中にいないけれど、探しにいくには手足がひどく怠くて邪魔でもう泳げない。
どうすることもできないままに闇に浮かんでいる私を、月が白けた顔で見ていた。やがて降り出した雨は私のための涙だったと、せめてそれだけは信じていたかった。
(2013/08/31)
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