ソーダの天秤
一瞬の大雨が過ぎ去った野原は広く青々として、けれど嘘みたいな青い空につぶされてしまいそうだった。
野に咲く花を両手いっぱいに抱えて、きみは立っていた。僕はその黄色い花のなまえを知らない。ひょっとしたら、いつもはただ雑草と言っていたかもしれない。または、いつもならすぐに言えたのかも、しれない。
なんの花、そう尋ねたら、きみはどこか淋しそうに、もうすぐ死んでしまうのとこたえた。
――何が。
きみは笑って、魚が、と言って、足元のちいさな水たまりを指さした。水たまりのなかには青い空が映っていて、赤い金魚がゆらゆらと泳いでいた。金魚達は青い空を悠々と泳いでいた。けれど、上を見あげてもなにも泳いでいない。
水たまりをのぞく僕のうしろにきみが立っている。僕の好きな、いたずらっぽい笑みを浮かべている。けれど、その目尻に涙がういている。ソーダが好きな君の心がしみだしたみたいな透明な色をしていて、心がすうっと冷たくなった。ソーダのアイスを流し込んだみたいに冷たく、冷たくなった。空がこんなに青いのに、きみの涙だけどうして水色じゃないんだろう。
――さよなら。
きみは笑ったまま、そして泣いたまま、指先で僕の後頭部をとんと押した。
あまりにもよわよわしい力で、とんと押した。
倒れなければいけない。僕は倒れなければいけない。指のピストルで撃たれたみたいに笑いながら、やられたって、前へ倒れなければいけない。どうしてか涙がこみあげて、僕はきみとそっくりな顔になってしまう。水たまりに倒れこんだ僕を見るきみの顔はもうみえない。
ぴちょん、と雨雫が落ちるような音がした。
ソーダの海にのまれた僕は、もう空のなかにいる。
空の底を見下ろすとあの花がある。そしてきみが両手をひろげて待っていたけれど、もがいてももがいても、そこには届かない。全力でクロールしたっていっこうに下にはいけない。あの赤く綺麗な金魚たちは、隣で自由に泳いでいるのに。
どうして。
どうして、手をひろげて空を見ているのに。笑っているのに。泣いて、いるのに。きみは首を振るだけで僕を押し流してしまうんだよ。
――あのね、ソーダはね、水じゃないから。だめだよ。
――ああ、そんなの知ってる。知ってるんだよ!!
このみえない壁さえ斬り捨てればきみの所まで泳いでいける。必死にもがいた。『なにか』を斬って、前に進もうとした。ふっと枷が切れたみたいに、僕のからだは支えを失って、ぐるんと回って真っ逆さまに落ちていった。
空の上で金魚たちが弾けた。
空は真っ赤に染まって、金魚は骨ばかりになった。僕のからだはあっさりと地面に叩きつけられた。
骨の金魚が、赤く染まった花をついばんでいる。僕はどこから僕を見ているのだろう、君だけが変わらずそこにいる。僕だったものの欠片を拾い集めて、ぼろぼろぼろぼろとソーダみたいな涙をこぼす。僕は風にも水にもならない、からの涙をこぼす。
空よりはるか上のほうで、今なにかが終わる。真っ赤なサイレンの音がひどく耳についた。
(2014/07/23)
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