船を待つ人
波打ち際に立って、女は海を眺めている。後ろから歩いてきた少年が、海に向かって小石を放り投げた。
小石は沈みも、流されもせず、不思議と波間を漂っている。石だと思われたものは、真っ白なくらげに成り変わっていた。女は振り向かない。少年はもう一度石を投げようとしたが、女が彼方を見つめたままでいる事に気づくと、振り上げた右腕をつまらなそうに投げ出した。少年の握っていた石ははずみでぽとりと落ち、たちまちちいさな蟹となると、小股で砂浜を歩きだした。
「どこを見ているの」
「船を見ているの」
少年は眼をこらしてみたが、女の眺めているほうには何も見えない。クレヨンで描いたような水平線がただただ広がるばかりで、そのはるか上にも、太陽が貪欲にかがやいているばかりである。
この島に他の人間はいない。女と、少年だけがここにいる。
いつからこうしているのかもう忘れてしまった。だが飢えもせず、乾きもせず、不思議とここで暮らしている。
女が誰であるのか、少年は知らなかった。母の顔すら忘れてしまっていた。けれど、彼女が己の母ではないのはなんとなく分かっていた。兄弟でも、友達でもないだろう。きっと顔見知りですらない。
女のワンピースはいつまでも清らかに白く、太陽の光をただただ透かしている。
朝はこがね色に染まり、昼は青空にうかぶ雲と混ざりあって、夕方になると橙色にかがやく。
少年はもしかしたら女を知っていたのではないか、とも思った。女は記憶の海に落ちれば溶けてしまうほどに、はかない淡雪のようなものに思えた。
船を見ているの。
話しかければ、女はかならずそう言った。少年はそのたび蟹をつついて、うつむいた。砂浜に落ちる影だけはいつでも真っ黒だった。
夜になれば、満点の星々が空に蓋をする。そうすると、海も陸もかがやくのをやめてしまう。夜の世界は冷えた瓶の底みたいに真っ黒。女もようやく立って海を見つめるのをやめ、砂浜に身体を横たえる。
女のやわらかい腕のなかに頭を抱かれて眠るとき、少年はなにより幸せだと思った。空には星がかがやいている。女の眼に光る涙も、星のようにかがやいている。少年はやがて、女の涙で空はできているのではないかと考えるようになった。海も、砂浜も、きっとすべてがそうだ。世界のすべては、きっとこの女が産み落としたものではないか。
少年はある時、島でいちばん高い木のうえに登った。そこから女を見て、いままで気づかなかったことに気がついた。
女の頭にはぽっかり穴があいていて、そのなかに水がたっぷりと溜まっていた。星の色をした、きらきらと光る水で、少年はそれをやはり美しいと思った。
「何を見ているの!」
少年は木の上から、ありったけの声量で叫ぶ。そして女はいつもと同じように答える。
「船を見ているの」
女の頭のなかには、なるほど船が浮かんでいた。小さな島に向かって、それはひどくのんびりと、泳いでいた。
(2014/10/21)
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