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【コラム】結局、僕は褒められたいだけだった。

最近自覚して恥ずかしくなってしまった事があります。
それは「僕は結局褒められたいだけ」という事です。

このnoteやらSNSやらYouTubeやら、いろんな発信をするようになりました。
それは自分のためにやっているという感覚ですし、そう考える、自分の中で落とし込む事で、ブレーキを踏む事なくやれるようになりましたが、一番最初、つまりアクセルを踏む為の、車を走らせる為のガソリンは間違いなく「褒められたい」でした。

2022年の12月に『大久保佳代子とらぶぶらLOVE』が始まって、毎週アシスタント的な立ち位置で話すようになりました。
そのタイミングで告知もしっかりした方が良いと思いSNS更新を頑張るようにしましたが、少しずつ増えるフォロワーさんやコメントで褒められる事に快楽を得ているのは間違いなかったですし、そのコメントがきっかけでYouTubeを始めたといっても過言ではないです。
恥ずかしながら、もっと褒められたかったのです。

そもそも構成作家を目指したのだって、ラジオ番組にハガキだったかメールを送ったら採用されて、内容がちょこっとハマったから、その番組のパーソナリティが「この子、作家で使ったら?」と冗談で言ったのがきっかけでした。
大人が少し考えたらリップサービスとわかるような一言を後生大事に抱えて、その放送を録音したカセットテープも実家に保管し、勉強もろくにせず、構成作家を目指したのですから、褒められる事はとんでもないガソリンなのです。

これまでずっと「承認欲求が強い」を主に皮肉で使っていました。
「承認欲求が強いからああいう恥ずかしい事ができる」
「いいねがほしいだけ」「フォロワーの為ならなんだつてする」
"バズるためなら何だってやる人"に対しての皮肉を散々言ってきましたが、学生時代、僕が構成作家を目指すきっかけになった言葉を言われた高揚感を味わいたい、とか、
SNSやnoteのコメントでの賞賛をもっと浴びたい、とか。
そういう感覚はとてもよくわかるので、この皮肉が自分にも刺さるようになってきたのです。

バズるためにあの手この手を使って、時には人道からちょっと外れてない?と思うような事も「もっと褒められたかった」「何万もいいね来て凄いね、と褒められる高揚感が得たかった」からやった、と言われたら…
自分はやる事はないと思うけど、納得してしまう気がします。

まあ「褒められたかったからやった」なんて事は多分誰も思ってないし、思ってたとしても子供っぽすぎて言うのは恥ずかしいから誰も言えないだろうし、言ったとしたら「良い年して褒められたいってバカすぎる」なんて揶揄されて終わるのだと思いますが…。
今後言ってる人がいたら素直な人だな、と僕はほんの少し共感すると思います。

あともし万が一、億が一、僕が人道から外れてでも、バズろうとしたら、おそらく日常で褒められる事が一切なくなり「褒められたい」がMAXになった時だと思います。
そうならないように日常で褒められるような行動を取るよう心がけます。

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