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行方不明 田原 親賢/紹忍(たはら ちかかた/じょうにん)

大友義鑑(よしあき)、義鎮(よししげ)、義統(よしむね)、中川家に仕えた武将。生誕は不明ですが義鎮の若い時からの補佐役であったことから歳は近かったと思われます。大友宗麟ドラマ化なら間違いなく主役級の配役です。

死没は1600年 関ヶ原の戦いの影響で佐賀関の戦いで討ち死にしています。

父親は奈多八幡宮大宮司 奈多鑑基(なた あきもと)で兄弟に大友義鎮の正室になる奈多夫人がいます。

婚姻前か後かはわかりませんが幼い頃から大友義鎮の補佐役で重用されたようです。その後大友一族にあたる田原親資の養子となりこの時に名を親賢と名乗ったと思われます。大友義鎮に服従しなかった田原親宏(たはら ちかひろ)の牽制の役目を担っていたとあります。奈多八幡宮大宮司の息子だからか神仏信仰の強い方でキリスト教が大嫌いです。大友宗麟への忠義はあるんですけどね。

大友義鎮の毛利元就との戦いでは田原親宏や佐田隆居らと共に戦い武功を挙げています。田原本家の親宏の牽制と言われていますが。手柄がまあまあ親賢です。活躍した田原本家の領土まで貰うとなれば「お前、何してたん⁇」「毛利との戦いでいた?」と家老に言われてもしょうがないでしょうね。おそらく武力より策謀を好むタイプだったのでしょうね。

まあこの功があって1565年には加判衆に就任。臼杵鑑速死後は国政を預かる重臣になります。道雪には反対されるんですけどね。

1568年宗麟のキリスト教布教が流行して養子の親虎がキリシタンになり、奈多夫人と相談して廃嫡騒動を起こしています。キリスト教嫌いがよくわかりますね。

1570年くらいに立花道雪を加判衆から辞めさせ立花城の城主にさせ、「西の大友」としての権限を与えるのですが宗麟の道雪嫌い田原親賢の出世欲が反映されていたら面白いですよね。

田原親賢自体の所領は宗麟の部下では最大だったそうです。7000から10000の兵を出せた。とあるので格付けではほぼ大名ですね。

1578年耳川合戦時の総大将に就任。大敗します。これにより大友家は滅亡に向かいます。

敗因はいろいろあるようですが

宗麟、義統がいなかったこと。

田原親賢が奈多一族であまり兵士、武将に人気なく。配下の武将達が命令を聞かなかった。

キリスト教の為に寺社を焼き討ちした。

などなどが挙げられています。

田原親賢本人はキリスト教の為に寺社を焼き討ちしたのが敗因と主張しています。また合戦では一番に逃げたのが田原親賢とされていますが島津家の資料では一番に戦った武将と挙げられています。実際、耳川合戦から一年くらい行方不明になるので「一番に逃げた」というのは間違いだと思います。ただ戦場で花々しく討ち死にするタイプではなく。必死に生き延びるタイプです。当時の人々には嫌われそうですね。

行方不明になって復帰後は宗麟が田原親宏と揉め。田原本家の領土を親宏に返還させられています。

その後は宗麟の息子親盛を養子に迎え、家督を譲ります。

田原親宏の養子、親貫が謀反。これの討伐に出陣します。

島津侵攻の際には妙見嶽城を親盛に任せて、高崎山城を守備。大友義統府内脱出を手助けしています。必死に生き延びるタイプだけあってこういう所は流石ですね。

その後は大友義統の側近として活躍します。

1593年大友義統改易で所領没収。

その後、豊臣秀吉直臣となり、中川秀成の与力となります。

関ヶ原の合戦の際には大友義統が豊後で挙兵。田原親賢も中川家の旗を持って参陣しています。大友義統は黒田官兵衛の軍と戦い敗退。田原親賢は他の主だった武将が討ち死にする中で、落ち延びて中川家に戻ります。(石垣原の戦い)

この時、中川家の旗を掲げていたことが黒田官兵衛から伝えられ、徳川家康から中川秀成は疑われてしまいます。慌てた中川秀成は徳川家康の信頼を勝ち取る為に死にものぐるいで味方するのです。

田原親賢は戻ると中川秀成は徳川家に味方するとなり、臼杵城の太田一吉を討伐。落ち延びた田原親賢は復帰後、佐賀関で戦い、激しく戦う中で銃弾で討ち死にしています。この戦だけは逃げる訳にはいかなかったのでしょうね。また中川秀成にしてみれば地理に詳しい田原の復帰を黙認して働かせ、最後は死んでもらう様に仕向けたのかと思われます。

まあこの戦いで中川秀成は徳川家の信用されて、所領を安堵されます。

田原親賢は大友宗麟からの栄光と挫折を全て見ている数少ない武将の一人です。主人公にしたら面白いよなぁ。ただ、戦国時代にしては粋な要素のない武将だったと思います。

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ひでさん
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