田北 鑑生(たきた あきなり)
生誕不明。死没は1561年。
大友氏の家老である加判衆の田北親員(たきた ちかかず)の子として誕生。
1527年 佐伯惟治の乱の討伐に父とともに参陣、戦功をあげた。
1534年 勢場ヶ原の戦いでは先陣が討ち取られ形勢が不利の中、戦い。杉重信(すぎ しげのぶ)を討ち取り、陶興房(すえ おきふさ)を負傷させる戦功をあげ、大友軍の勝利に貢献した。
二回崩れの変後、大友義鎮の加判衆筆頭として筑前方面の担当になる。
1556年 小原鑑元の乱の討伐に参陣。
1557年 秋月文種討伐に参陣。
秋月討伐の功により筑後方面の担当になり現地にとどまる。
1561年 第4次門司城の戦いにて毛利軍の乃美宗勝(のみ むねかつ)の伏兵に遭い重傷を負い、この怪我が元で死去。
家督は弟の鑑重(あきしげ)(*後の田北紹鉄)が継いだ。
生誕が不明ですが父親が1538年に死去していますので1520年代には元服していたのではないかと思います。勢場ヶ原の戦いでは先陣が討ち取られた後で士気が下がる中を突撃を繰り返し大内軍を退けていく功績をあげた武闘派。イケイケなところは一族の田北鎮周(たきた しげかね)にも受け継がれている気がします。
田北氏は優秀な人材が多いのですが大友宗麟は好き嫌いの激しい人物ですのであまり評価されていません。鑑生(あきなり)はその点、評価が高かったようです。大友館の修理なども行っています。
この人物を三国志で例えるならは優秀な夏候淵のような人物ですかね。田北 鑑生(たきた あきなり)でした。
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