利光 宗魚(としみつ そうぎょ)
生誕不明。死没が1587年1月。大友宗麟、義統に仕えた大友家の重臣。
大友氏庶流戸次氏の支流利光氏の一族。実名は鑑教(あきのり)。大友義鎮が出家して宗麟と名乗るのに合わせて出家。宗魚と名乗ります。
宗麟の父、義鑑(よしあき)の諱をいただいているので1550年の前には元服していたのではと思います。正室が立花道雪の妹ですので1525~1530年くらいの生誕ではないでしょうか?
しかし、出家して魚の文字入れるところ、変わっていますよね。
魚好き?空海にあこがれた?中国の魚にかけた?
信長の野望では僧侶の姿が空海に見えなくもない。面白い人だったのでしょうか?
でも、人物評は大友家を支えた清廉な武将といわれています。
1581年、志賀親度が島津と対峙した際に救援したとあります。
1585年に大友宗麟の勧めでキリスト教に洗礼。
1586年に肥前筑前に出陣中に島津が侵攻(豊薩合戦)。
慌てて帰国し、鶴賀城を死守します。死守した兵は、城兵700,付近の農民3000といいますから農民が逃げてきたところをかくまい攻防戦になったのでしょうか?攻め手は島津家久率いる13000。戦上手でめちゃくちゃ強い。よく守りましたね。
ここからの記載が曖昧ですが、
戦闘中に流れ矢に当たって討ち死にした。とか島津軍が本丸を残して撤退していく様を櫓から見ていたら狙撃された。ようです。討ち死にした後も城兵はそれを隠し、城を死守したとあります。
城も戸次川合戦の時には落城した。またはかろうじて守っていて戸次川合戦で大友方が敗北したのを機に降伏した。城兵は臼杵城へ行くことを許された。などあります。合戦の詳細が沢山あるのは後生でこの辺りの記述が沢山されたからでしょうか。ルイスフロイスは貴人として利光宗魚を称えています。
個人的には洗礼名が気になるところですが。
「どうも、利光宗魚っす!」と挨拶されたらびびるなあ。
利光宗魚でした。