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抜けがけ 田北鎮周(たきた しげかね)

田北氏は大友氏の庶流で直入郡田北村を本貫にしていた武将です。生誕は1543年、没年は1578年。耳川の合戦で討ち死にです。

大友義鎮、義統に仕え、武勇に優れた武将だったようです。立花鑑載の反乱鎮圧や毛利との戦いで武功を挙げています。

耳川合戦では前哨戦の土持親成攻めで武功を挙げて、先鋒として島津軍に攻め寄せています。この勢いに慌てて島津義久は出陣して高城川で睨み合いとなります。

耳川合戦では速戦を主張していますが佐伯惟教らの持久戦が受け入れられる。

それを納得しなかった斉藤鎮実と田北鎮周は早朝に川を渡り島津軍に攻撃。耳川合戦の火蓋を切ってしまいます。当時では抜けがけでも勝てばその功で不問になります。まあ部隊の統率がとれない軍で勝てるほど島津義久は甘くありませんでした。斉藤鎮実さんは過去散々にやられた「釣りの伏せ」に田北鎮周とまんまと引っ掛かり、討ち死にします。更にはそれらを助けようと持久戦を主張した佐伯惟教も討ち死。角隈石宗ら名だたる武将も討ち死にするという大友氏過去最大の敗北をしてしまいます。

鎮周にしてみれば高城攻略があと一歩だったので、邪魔な大将、島津義久を討つ絶好の機会だと思ったのでしょうね。

この戦いは宗麟の敗北とする記載もありますが実際には大友義統が主導して戦をしたというのが事実のようです。大友義統は合戦下手ですし、武将の掌握も下手だったようです。耳川合戦では義統は自分の本隊を鍋城へ田原紹忍に高城を攻略する二方向の攻略を目指しています。これ全軍で高城攻略だったら歴史かわってたよなと思います。

抜けがけ 田北鎮周でした。

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ひでさん
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