最強 志賀親次(しが ちかよし)
大友親次は大友家臣。岡城城主です。生誕は1566年。死没は1660年。戦国時代には珍しく長寿の人です。94歳くらい生きています。大友後期家臣では立花宗茂に並ぶ最強の武将です。父は志賀親守。義母は宗麟の娘(正確には服部右京亮が父親)です。キリシタンで洗礼名はドンパウロといいます。19歳の時に義父の親度が主君の大友義統と不和となり失脚。家督を継承しています。
その後は1586年島津侵攻(豊薩合戦)の際には義父親度や周りの南郡衆が島津に味方する中で1500の兵で岡城を死守。島津義弘、新納忠元の大軍を撃退。鬼ヶ城の決戦では五百の兵で数千の島津義弘軍を打ち負かしています。その後は義父親度を自刃させ、活躍します。秀吉が絶賛して、島津義弘も「天正の楠木」と呼び絶賛されたとあります。島津侵攻の際、島津軍3万ともいわれる敵を退けています。めちゃくちゃすごいですね。
秀吉の九州平定後は岡城を中川家に明け渡し、大友義統に日田の所領をもらい、その発言力をましていきます。親次自体活躍して日田しかもらえないのでやりきれない気持ちも込めていたかもしれません。
なぜなら、本当は宗麟が日向国もらう予定だったそうですがその際、志賀親次に一城を与えよ。という秀吉の命令書があったのです。
宗麟が拒否したそうですから親次にしてみればやりきれないところもあったのではないでしょうか?立花宗茂は大名になりましたからね。
豊薩合戦の活躍後特別扱いされる親次に主君大友義統はしだいに疎ましくおもうようになります。またキリスト教が禁教となりますが親次は棄教を拒否。事実上の隠れキリシタンの保護者になっていきます。
文禄の役では大友義統に同行し、誤報を信じて退却させた張本人といわれていますがこれは義統やその部下達の八つ当たりみたいなところがあります。これにより大友家は改易。親次は大友家を出て蜂須賀家政に仕えます。関ヶ原の戦いでは大友義統が豊後で兵を挙げそれを支援。黒田官兵衛との戦いに敗れ、その後は福島正則、小早川秀秋、毛利輝元に仕えた。とあります。
親次自体の活躍は豊薩合戦に集約されている感じがありますが武の高さが伺えます。あの島津義弘を負かしていますからね。
信長の野望ではもう少し武力をあげてほしい武将です。
熱心なキリスト教信者だったそうですが最初は洗礼させてもらえなかったようです。幾度となく教会に通い、自分の腕に十字の傷をつけた。とか記述があります。洗礼を受けるときは20歳くらいですから若さゆえの勢いみたいなものが感じられますね。こういう所が他の同僚や主君義統をドン引きさせたのかもしれませんね。
秀吉みたいなぶっ飛び天下人には好かれそうです。大阪随行の際には他の家老を待たせて関白とお食事会に呼ばれています。
親次は大友家を出てからは九州に戻ることはありませんでしたが、その子孫は細川家に仕えたそうです。