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神兵 奈多鑑基(なた あきもと)

奈多氏は豊後安岐郷にある奈多八幡宮の大宮司家である。

奈多鑑基は生誕は不明。1522年に田北鑑生(たきた あきなり)の妹をもらっており、大友義鑑(おおとも よしあき)の諱をもらい、鑑基と名乗った。鑑基の娘は大友宗麟の妻(奈多夫人)となり、義統を産んだ。鑑基の子、鎮基(しげもと)は大友宗麟の娘をもらい、両家は婚姻関係で結束した。また、鑑基の次男に田原親賢(たはら ちかたか)がおり、大友宗麟の側近、大友義統の重臣として活躍した。

当時の奈多氏は豊後国東、宇佐地方の荘園を持ちその勢力は九州最大といわれています。奈多氏は奈多城を築き、神の兵として兵士を配置している。

大友家はこの勢力の取り込みに尽力、当初は大内氏と大友氏で揺れたようですが、宇佐神宮が大内氏の勢力下に入ったあたりで大友家に与したようです。奈多氏は当時、海軍力を持ち、また砂鉄の生産が行われており。大友家の九州北部進出の原動力になっています。大友義鎮が人妻時代に見初めたのか離別後に見初めたのか定かではありませんがバツイチ子持ちの奈多夫人を正室に迎えてから大友の栄華時代がはじまります。

鑑基は大友宗麟の時代に寺社奉行に任命。また武将として数々の戦に参加。武功をあげている。宮司らしからぬ武人だった様です。

しかし1569年毛利軍との戦い(立花城攻防戦)の際に陣没している。

家督は鎮基が継ぎ、数々の戦に参加。しかし1587年に死去。鎮基は子がおらず、久我晴通(くが はるみち)の子、万福丸が継ぐが、後に京都に帰ってしまったため奈多氏は断絶した。

奈多氏は大内氏の勢力排除後に寺社奉行として悪行をおこない、評判が芳しくない。宇佐神宮の放火、荘園の占拠など行ったようです。これは背景に大友家の神仏領土の排斥政策が大きい様ですが、奈多氏は宮司にしては乱暴で思慮がないようにもみえます。

しかし神仏の信仰は高かったようで、耳川合戦後、奈多鎮基は道に迷い、さまよう中で摩利支天のご加護で無事帰還したなどの伝説も残っています。

ちなみに記録が曖昧です。宮司とだけわかりますが詳しくありません。宇佐氏の出自ではないかとか、元々海賊の出自では?などといわれていますがよくわかりません。秀吉の統治下で書物が焼かれたのか?慶長地震などの際に紛失したのか?今となってはわかりませんが奈多城跡や奈多海岸など地名は残っています。この一族が大友宗麟の栄華を支え、晩年のキリスト教の信仰の反対勢力なのは間違いないようです。信長の野望ではでてきません。なんで?

神兵 奈多鑑基でした。

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ひでさん
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