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吉岡 甚吉(よしおか じんきち)

生誕不明。死没も不明。
父は吉岡鑑興(よしおか あきおき)。
1578年耳川の合戦で父が戦死。家督を継ぐ。
1586年の豊薩合戦の際、大友宗麟(おおとも そうりん)が籠城する臼杵丹生城(現:うすきじょう)を守る。二王座(におうざ)を守り戦功をあげる。二王座の兵300~500に対し島津軍3千と戦いこれの撃退。後に甚吉坂(じんきちさか)なる呼び名もついている。
大友義統(おおとも よしむね)の時代に統増(むねます)に改名?元服?
大友義統が改易の際には浪人となり椎原五郎右衛門(しいはら ごろうえもん)と称しその子、瀬兵衛(せへえ)が1621年細川氏(ほそかわし)に仕え、幕末にいたる。

豊後三老の祖父を持ち、父も重職をつぎ、孫の代ではお取り潰し。一番かわいそうな世代なのですがこの世代の大友家臣が一番大変だったと思います。
なんせ、元国主の大友宗麟はキリスト教に傾倒しており何をしても「アーメン」の状態。かといえ国主、義統は秀吉頼みで島津に戸次川合戦で敗れたら府内を捨てて逃げ出し、あまつさえ、愛人を忘れた、連れてきてと家臣に頼むぼんくらです。家臣としては恥ずかしい限りでしょう。よくその後を支えたと思います。大友家では名門の吉岡氏ですがこの辺りの記録はあいまいです。実は母、吉岡妙林尼のその後の行動も不明です。この人が回想録書いたらめちゃくちゃ面白かったろうな。と思います。

吉岡甚吉でした。

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ひでさん
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