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水戸の黄門様はキュウリがお嫌い!

水戸黄門の諸国漫遊記は、時代劇の定番として、明治末期から現代まで何度も映画やテレビドラマになっていますので、ご存じない方の方が少ないかと思います。

Wikipediaで確認してみると、映画は1910年10月に公開された『水戸黄門記』(尾上松之助主演)に始まり、1978年12月に公開された『水戸黄門』(東野英治郎主演)まで81本、テレビドラマは、1954年の『エノケンの水戸黄門漫遊記』(榎本健一主演)に始まり、2019年の『水戸黄門』(武田鉄矢主演)まで16シリーズになるようです。

これだけあると、黄門様がどこかの国でその辺に成っているキュウリをもいで囓りながら、「カッ、カッ、カ!」と笑うシーンがあってもおかしくないなと思いますが、実は黄門様はキュウリがお嫌いだったというのはご存知でしょうか?

黄門様で知られる徳川光圀(1628~1701)の没後すぐに、三木之幹・宮田清貞・牧野和高らによって1701(元禄14年)に編纂された、光圀公の言行録『桃源遺事(とうげんいじ)』という史料があります。

この中に、

西山公仰られ候は、黄瓜をば一名を胡瓜と云、又癩瓜と云、此瓜甚穢多し、食して仏神へ参詣すべからず、又毒多して能少し、いづれにしても、植べからず、食すべからずとの仰なり、

『桃源遺事』
『桃源遺事』(茨城県国民精神文化講習所 1935)ー国立国会図書館デジタルコレクション
※右頁中央に黄瓜(きうり)の記述

との記述があります。
水戸藩2代藩主だった光圀は、藩の家督を3代綱條に譲って隠居した後に、現在の常陸太田市にある西山御殿(西山荘)に移り住み晩年まで過ごしたので、ここに書かれた「西山公」は光圀のこと指します。
黄瓜は毒が多くて効能は少ないから、植えてはいけないし、食べてもいけないとは、かなりの嫌いようですね。

キュウリはインド西北部が原産で、日本には中国を経由して黒いぼ系の品種(華南型)が遣唐使によって持ち込まれたと伝えられます。
最初は薬として用いられたようですが、当時のキュウリは今と違って黄色く熟してから用いられたので、「黄瓜」と呼ばれるようになったそうです。

黄色く完熟したキュウリ「黄瓜」

京都の八坂神社では、輪切りにしたキュウリの断面の形が、御神紋の「五瓜に唐花(ごかにからはな)」に似ていることから、7月の祇園祭の期間は、八坂神社の氏子はキュウリを食べてはいけないという禁忌があります。

同様に博多山笠でも、キュウリの断面が山笠の祭神・スサノオノミコトの神紋である「木瓜の花(ぼけのはな)」に似ていることから、7月の山笠の期間中は氏子はキュウリを食べないことになっています。

青大きゅうり断面

そして江戸時代は、断面の形が徳川家の家紋である「三つ葉葵(みつばあおい)」に似ているので、武士達は恐れ多いとキュウリを忌避したと伝えられており、『桃山遺事』にある穢れの記述は、こうしたことを反映したものだと考えられます。
しかも、この頃のキュウリは苦みがあって、好んで食べるものでもなかったと思われ、それが「毒」という表現に繋がっているのでしょう。

そしてこれは、光圀公だけが言っているのではなく、江戸前期の本草学者・貝原益軒は、1714(正徳4)年に出版された著書『菜譜(さいふ)』の中で、キュウリについて、

是瓜類の下品也。味よからず。且小毒あり。性あしく、只ほし瓜とすべし。京都には秋うり多きゆへ、胡瓜を不用。

『菜譜』

と書いています。

このようにこのように、江戸時代の初期には好んで食べるものではなかったキュウリですが、幕末の1832(天保3)年に秋田出身の佐藤信淵が著した『草木六部耕種法』には、

胡瓜は諸瓜の最初に出来る者にて、世上甚だ珍重す。諸瓜の盛なるに及ては人も亦賞美せずと雖も、此れ亦一個の大用ある者なり。宜しく多分に作るべし

『草木六部耕種法』

として栽培を奨励しています。
この評価の違いは、幕末にかけて苦みの多かった華南系の品種改良が進んだことや、江戸・砂村(現江東区)の1789(寛政元)年を筆頭に、大阪今宮、京都聖護院で促成栽培が行われるようになり、次第に重要野菜のひとつになっていったことと無縁では無さそうです。

この江戸末期から明治時代にかけて、華北系のキュウリも日本に導入され、品種改良が重ねられて、各地に特産的な地方品種が生まれ、以降、全国各地で様々に改良された品種のキュウリが栽培されるようになり、栽培面積も明治末期から大正期にかけて急拡大して行きました。

ですから、江戸時代中期以前の時代劇で、もし登場人物が青いままのキュウリを囓るシーンがもしあったら、時代考証ができてないなと思って構いません(笑)。

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