山上徹也容疑者の「共感できない母親」について思うこと
山上容疑者が自衛隊で自殺未遂をした時、お母さんは修行の続行を優先したそうだ。これを聞いてワイドショーのコメンテータが「統一教会は家族の関係を重視しているはずなのに、お母さんが山上容疑者の自殺に関心を向けないのはどうしてか?」と言っていた。
紀藤弁護士はこれを教団の教えであると言っている。
これを聞いて「なるほど、世の中にはこういう親子関係を理解できない人がいるのか」と感じた。おそらく進んで修行に没頭する人がいるはずなのだ。
代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉がある。子供の世話をする優しいお母さんという評価を得たいために子供を虐待して「世話をする状態」を作り出す母親のことだ。日本に限らず世界的によく見られる現象だ。
例えば2020年にはお母さんが子供の点滴に水道水を混ぜて逮捕されている。このお母さんは懲役10年の実刑判決を受けたそうだ。
昔読んだ「母親が重たい娘」が書いた文章に次のようなエピソードが出てくる。自分が病気になってお母さんが駆けつけた。本当はありがたいはずなのだが、なぜか迷惑に感じる自分がいて罪悪感を感じた。ところがお母さんは突然どこか別のところに出かけると言い出した。他に世話をする用事ができたのだという。そこでその娘は「ああ、このお母さんは私のことを気にかけているのではなく、誰かの世話をしている優しい自分」が好きなのだと気がつくのである。
この「なぜか母親が重たいと感じた娘」はその時に初めてその重たさの正体を知るのである。
おそらく山上容疑者のお母さんも「子供に愛情を持てないが」「家族のことを一生懸命考えている自分が好き」な可能性がある。このため、家に帰って徹也容疑者に接してもどうしていいかわからない。それよりも「家族のために献身的に祈る自分」を周りに見て欲しいと考えているのかもしれない。
我々は山上容疑者を中心に物語を組み立ててしまうため母親の行動が理解できない。だが母親を中心に考えると彼女にとっては極めて「合理的」だった可能性がある。
だが日本は「母親というのは母性を持っていて自ずと子供を愛するはず」という前提で社会が作られている。このためこうした「優しい自分が好き」という母親は見過ごされがちである。子供は多くの場合ネグレクトの被害者なのだがその体験を社会と共有できない。まさかそんな親がいるとは誰も想像してくれないからである。
なかには「お金でしか社会とつながれない人」もいる。しょっちゅうプレゼントをしてくる人がいる。なんとなく過剰な気がして違和感もあるのだが、別に悪いことをされているわけでもないので放置している。
違和感を感じるのは「きっとさみしいのだろうから食事にでも誘ってあげよう」などと考えた時だ。寂しいはずなのだが食事をみんなで楽しんでいる様子は見られない。むしろなんとなく迷惑そうでもある。
つまりこの人は「普段から人間関係が取り結べない」ため「お金やモノを差し出す」ことでその代替をしているということになる。
整理すると次のようになる。もともと人間関係がうまく結べない人がいる。共感能力に欠いているためだ。遺伝的にそうなのか育った環境のせいなのかはわからない。したがってそれを「治療」することはできない。ところが女性は「世話をする性だ」という認識があるため「子供のため家族のため」という理由をつければ活動を自己正当化しやすい。新興宗教はそこをわかっていてわざわざそういう人を探しているのである。
ここまで読んだ人は「なぜ女性のことばかりを書くのだ」と憤るかもしれない。これには理由がある。同じように共感性がなく人付き合いが理解できない人でも男性は仕事に没頭することができる。組織に対する貢献者は会社人間として評価されてしまう可能性が高い。これは男性と女性に期待される役割が違っているからだ。
男性に危機が訪れるのは退職後である。だが退職後に新しく人間関係を取り結ぶことはできないので新興宗教に取り込まれることはない。せいぜい家庭の中で暴君になり妻を支配したりSNSにネトウヨ的な文章を書きみんなに嫌われるかくらいのことにしかならない。
一方、女性は家庭に居場所を作ることができないと(つまり家族と共感できないと)たちまち役割を失ってしまう。新興宗教というのはその穴を上手に利用して彼女たちを無制限の貢献者にする。その裏でネグレクト(これは虐待の一種である)される子供が大量に生み出されるのである。
言い換えると新興宗教は昭和型の無制限貢献組織の劣化版コピーということが言える。株主や法律によって規制されないため危険な存在になることがあるが、むしろ危ないのは持続可能な状態で信徒を絞っている新興宗教だろう。被害が出ても顕在化しにくい。
その意味では彼らの教えである夫婦別姓の拒否などのいわゆる伝統的な価値観が自民党議員に浸透して言ったのも当たり前のことである。会社や社会が個人を保護してくれなくなった現代においても、国家支配者は国民に無制限の献身を求める。そしてそれに真っ先に呼応するのが身近な家族と共感することができない人たちなのである。自然な愛情が理解できないため「形」にこだわりを見せるのだ。
だが、残念なことに「普通の家庭」に育った人たちがこういう破綻した親を見ることはない。このためまさか愛情や共感が理解できず「形」によってしか人間関係が理解できない人がが世の中にいるとは想像ができないのだろう。
彼らは素直に「家族を大切にするのに宗教などいらない」はずだし「子供が自殺騒ぎを起こせば真っ先に駆けつけるはずだ」と思い込んでしまう。
その一方で「ああこんな母親なら周りにいくらでもいる」と考えている人も実は多いのではないかと思う。高度経済成長期は地縁が消失した時代だ。このため核家族が孤立し様々な問題を抱え込むようになった。意外と「うちは普通の家族とはどこか違うようだが何が違うのかよくわからない」という人も多いはずだ。