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ミシュラン三つ星レストランへの挑戦 vol.8

東京・白金のフレンチレストラン「ラ クレリエール」のオーナーシェフ、柴田が日々、何を考えているかを綴ります。

第二章 プロの世界へ

vol.1からご覧になる場合はコチラからどうぞ → 第一章 レストランのシェフになる

8.地方の一つ星レストランでの修業
~オステルリー・ビュー・ムーラン~

ブルゴーニュの一つ星レストラン

オステルリー・ビュー・ムーランは、地方のレストランとしては中くらいの規模、30席ほどのお店でした。地元の方が「今日はちょっとご馳走を食べよう」と言って来る、とびきり高級ではないけれど、ちゃんとしたガストロノミーな料理が出てくる、そんなレストランです。
サービスは、オーナーとマダムに忙しい時は娘さんも加わり、厨房はシェフと僕も含めたスタッフ4人。以前、二つ星だった頃は、厨房も10人くらいいて客席ももっと多かったと聞きました。
セゾニエという「1年の内3カ月バカンスで休む代わりに残りの9カ月は無休」という営業形態だったので、毎日仕事です。月曜~金曜は夕方4時くらいに出勤して仕込みをし、19時半~20時くらいに店を開け、22時~22時半くらいに閉める。土日はランチがあるので朝9時出勤。昼の営業が終わったらいったん帰宅して、夕方からまた仕事に戻る、そんな日々でした。

ブルゴーニュという土地柄、お客様にはドメーヌの方も多かったですね。彼らは食事の後、100%調理場まで入って来てくださってその日のお料理の何が美味しかったのかを伝えてくれました。ドメーヌについて無知だった僕は、後日訪ねたドメーヌで初めてその方がワインの生産者さんだったと分かることも多かったです。当時はワインのことを本当に知らなくて(今もですが)、帰国後、自分なりにワインを学び始めて、驚くほどたくさんの素敵なドメーヌの方々に会わせていただいていたんだと気づきました。

この地だからこその最高の経験

お店があったブイヨンという村は山奥でした。携帯電話の電波も通じない、いわゆる“田舎”なのですが、生まれ育った北海道留辺蘂という田舎から東京という都会へ出てきた僕の中では“田舎”というより“過去”へ来たという感覚でした。不便だったけれど苦ではなかった。
週2回、オーナーとシェフがディジョンのスーパーマーケットに買い出しに行くので、食材を見によくついて行きました。そして携帯が通じるディジョンから、日本で待っている彼女(現在の妻です)に連絡したりしていました。
買い出しは、シェフだと朝9時か10時出発のところ、オーナーは朝4時か5時に出ます。帰りにフェルミエやドメーヌを周るためです。有名なドメーヌだとDenis Mortet(ドニ・モルテ)さんなどには必ず寄っていました。
実際にチーズを作っている現場やワイン農家を訪れて教えていただいたことは、フランスでの最高の経験の一つだったと思います。毎日リュードグランクリュを通るとか、最高に贅沢じゃないですか?残念ながら当時はその価値をまったく理解していませんでしたが(苦笑)。

僕にとって「最高のフランスの経験」は、調理技術の習得ではなく、フランスというものを体験したことだと思っています。実際、現地で調理技術で困ったことは一度もありませんでした。

調理技術は身を助く

フランス最初の夜のはち切れんばかりの不安と恐怖も、解決したのは自身の調理技術でした。というのも、翌朝店に行って料理を作り上げた瞬間、不安と恐怖がキレイさっぱり吹き飛んだのです。料理ができたことで再び自分を信じることができました。
店の料理も、出来上がりと作り方を1回見れば同じように作ることが出来ましたし、2日間ほどで全ての料理が出たので、見て、やって、ほとんど覚えました。シェフがついてくれていたのも最初の1週間くらいでしたね。その後は前菜を手伝い、肉料理を手伝い、デザートもやって、最終的に魚のポジションのシェフに落ち着きました。

料理人人生で一番衝撃を受けたフランス人シェフ

シェフは僕より少し年上で、当時32~3歳だったと思いますが、何度も「わあ、すげえ!」と思いました。フランス人シェフと働くのが初めてだったこともあって、その発想や味覚のベースの違いが衝撃的だったんです。
勉強熱心な人で、たくさんの本を読み、どんどん試作していました。ちょうどエルブジが凄かった頃で、その技法をアクセントとして料理やアヴァンデセールに入れてみたり。トラディショナルな料理をベースに自分なりに時代性を取り入れる、今の自分と似たタイプのシェフでした。調理の技術だけなら僕も負けないと思いますが、料理人としてその姿勢や行動、発想にはたくさんの刺激を受けたし、多くのことを学ばせていただきました。
シェフ以外のスタッフは、殆どが20代前半。皆、教えて欲しいと言えば何でも教えてくれるし、僕の仕事を見て技術力を認めてリスペクトしてくれ、働きやすい環境でした。入った後で知ったのですが、常に日本人スタッフがいる店だったのも大きく影響していると思います。日本人と働き慣れていて、コミュニケーションの面ではかなり助けてくれました。

オステルリー・ビュー・ムーランは、僕にとって初めての文化も言葉も違い、知っている人もいない調理場でした。だからこそ「同じ調理場でプロの料理人が働くと、料理のそのものや料理技術が、そのままその人の人となりを表現し、コミュニケーションツールに変わる」ということを鮮烈に体験しました。もちろん、言葉を使っての意思疎通はとても大切ですが、料理人(クリエイター)にとっての料理(作品)は、言葉では伝わらない、伝えることができない事柄を伝えられるコミュニケーションツールなのかもしれません。その辺りのお話は、またいつか改めてしたいと思います。

パリへ!

そうやって4ヶ月ほど働いて、次のステージに進むことを決めました。ブルゴーニュだけで働くのはもったいないと思ったのと、料理の勉強に来ているのに全部できてしまう状況は良くないと考えたからです。そして三つ星の料理と働き方を学ぼうと、全てのパリの三つ星店に連絡しました。結果、返事が来たのは2軒だけ。アルページュのアラン・パッサールシェフからは「今は無理」でしたが、ル・グラン・ヴェフールからは「会いに来て」という返事が届きました。

店を辞めてパリに行きたいと伝えた時、店の皆は驚きも反対もなく「そりゃそうだよね。次のステップに進むよね。」という反応でした。厨房の皆も、手紙の書き方や電話のかけ方を一から教えてくれ、協力してくれました。ル・グラン・ヴェフールから連絡が来た時は手紙でなく電話だったので、喋れない僕の代わりに隣にいたスタッフが答えてくれたんですよ。
最終日もオーナーがサンドイッチを作って持たせてくれました。「最後だから」という訳じゃなく、ごく普通に「長旅でお腹が空くだろうから」と手近な材料でパパパッと。その自然な温かさに感動しました。
そして、一緒に寮生活をしていたスタッフが車で駅まで送ってくれました。

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このnoteを初めて読んでくださった方へ
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はじめに初めまして。ラ クレリエールの柴田です。
白金でフレンチレストランのオーナーシェフをしています。
2020年のコロナ自粛の間、レストランのあり方や自分が今後進むべき道など色々と考えました。その中で「ミシュランで三つ星を獲得すること」を一つの指標として強く意識するようになりました。
そして、どのようにすれば三つ星を獲得できるのか、三つ星にふさわしいと皆様から認めていただけるのか、日々、考えたことや行動したことを記録に残そうと考えました。
ご興味を持っていただけたら幸いです。

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