上野くん・仙仁さんとの往復書簡|等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音(1通目)
はじめに
どうも、こんにちは。得津(とくつ)です。
この記事を目に留めて下さった皆さま、ありがとうございます。
この記事は、コンサルタントの上野くん、塾講師の仙仁さん、そして私の3人でおこなう往復書簡の一通目になります。
テーマは、「等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音」です。
『贈与論』と言えば、フランスの文化人類学者マルセル・モースの著書ですが、この『贈与論』をどの程度扱うのかは、はっきり決めていません。
3人とも社会学者ではありませんので、『贈与論』や関連の書籍なども(おそらく)触れつつ、3人の生活実感や、3人なりの思索を元にして、あれこれ意見を交わしていけたらという試みです。
この往復書簡が始まった経緯としましては、昨年に私と上野くんで「働く大人の自己肯定感」をテーマに往復書簡をおこなったことがきっかけです。
(「働く大人の自己肯定感」についての往復書簡はこちら)
10年来の友人である上野くんとは、これまでに何度もいろんなことを話してきましたが、往復書簡という形でじっくり意見を交わすのはこれが初めてでした。やってみたら予想以上に知的好奇心が刺激され、二人とも「これは楽しいね」ということで、2回目の往復書簡をすることになりました。
前回と違って今回は、塾講師をされている仙仁さんにも加わっていただきます。仙仁さんは、私と上野くんの共通の知人で、1回目の往復書簡を始めるにあたってアドバイスをくれた方でもあります。
「3人で往復書簡をしたら、もっと楽しいよね」ということで、今回は3人でのやり取りになります。
簡単に私(得津)の自己紹介
そろそろ本題に入ろうかと思いますが、もう少しだけ前置きにお付き合いください。
きっと、この記事を読んでくださる方の中には、上野くんのお知り合いや、仙仁さんのお知り合いもおられると思います。
上野くん、仙仁さん、私の3人ともを知っている人なんて、ほとんどいないでしょうから、簡単に私の自己紹介だけさせてください。
私は、普段は滋賀と京都でフリースクールの運営をはじめとした不登校支援をおこなっています。上野くんとは学生時代からの付き合いで、仙仁さんとは社会人になってからの付き合いですね。仙仁さんとも8年くらいの付き合いになるでしょうか。
上野くんが塾講師を探していたところに、私が仙仁さんを紹介したこと機に、3人でもちょこちょこ会うようになりました。
そんな私たちが、これからお互いに3〜4通ずつ「等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音」について意見を交わします。もしかしたら、あらぬ方向へ話が飛ぶかも知れません。それも素人の愛嬌だと思って、ご海容いただけますと幸いです。
長い枕にお付き合いありがとうございました。それでは、3人の往復書簡の始まりです。
「等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音」
上野くん、仙仁さん
こんにちは。得津です。
お元気にされていますか。僕は花粉症がひどいです。鼻水と目の痒みが辛いです。
上野くんとは2回目、仙仁さんとは初めての往復書簡ですね。どんな風に話が進むのか今から楽しみです。
上野くんと「働く大人の自己肯定感」を扱ったときもそうですが、たとえなんのオチもつかず、話がとっ散らかっただけだったとしても、3人それぞれが日常の中で立ち止まって、ゆっくり考える時間をもつ機会になったなら、僕としてはそれで大成功だと思っています。よろしくお願いします。
今回は、上野くんから「等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音」というテーマをいただきました。上野くん、ありがとうございます。
上野くんからのスタートでもよかったと思いますが、僕が先頭を切らせてもらいます。と言いますのも、きっと僕が一番モースの『贈与論』について詳しくないと思うんですよね。
恥ずかしながら『贈与論』を読んだこともないので、この記事を書くにあたって『贈与論』の要約サイトを読んだり、仙仁さんおすすめの『借りの哲学』(サルトゥー=ラジュ,ナタリー著)を読んだり、僕がどハマりしている内田樹の著書の中から贈与論に関する記述を読み返したりしながら、なんとかついていこうと思っています(笑)。
(こちらは僕が読んだサイトです)
自分がちゃんと勉強していないトピックを扱うことに多少の不安もありましたが、この3人でなら、何か良きものをお互いに得られるのではないかと考えています。
それに、今のうちなら素人考えを存分に出しても大丈夫だろうという下心もあり、一番手を取らせていただきました。
年賀状がもうめんどくさい
この往復書簡は、『贈与論』への批判や『贈与論』再考ではなく、「等身大の贈与論ー与える/受け取るの本音」なので、最初は、僕の生活実感から話を進めますね。
正直、年賀状がめんどくさいんです。
いや、わかってます。なんと自分は不義理で非人情なやつなんだということは。ええ。
この記事を読んでくださってる方々の中には、僕に年賀状をくれた人もいます。その方々を前にして、年賀状がめんどくさいと吐露するのは申し訳ないのですが、年々めんどくさくなってきています。
年賀状って、まさしく『贈与論』にあるところの、受け取る義務であり、返礼する義務じゃないですか。これまで送ってくれた人には今年も送ったほうがいいかなぁと思うし、送ってくれた人に返さないのも、なんだか不義理な感じがする。だから、年賀状は毎年作るんですけど、前向きな気持ちではありません。
なんというか、「この人に送りたい」という子どもの頃に持っていた年賀状へのモチベーションはすっかり失われてしまって、「付き合いだしなぁ」という義務感で年賀状を送っているのが本音です。
それに、もらった年賀状にも、僕が感じているような本音が透けて見えることもあります。『贈与論』でいうところの、贈り物に込められた魂が「年賀状めんどくさい」と言っているような気がします。
LINEなり、なんなりで、簡単にメッセージが簡単に送れる現代社会において、「年賀状めんどくさい」という魂を込めてまで年賀状を送らなくてもいいと思うんです。
贈与や交換は受け手が起点になる
このままだと、『贈与論』を言い訳に年賀状を書きたくないと愚痴をこぼしているだけなので、もう少し贈与についてのお話を。
内田樹は、いくつかの著書の中で、贈与や交換が起こるのは「あ、これは自分への贈り物だ」と、受け手の立場をとった人がいて初めて成立すると言っています。送り手が先じゃないんです。受け手(だと勘違いした人)が先なんです。
例えばこの記事でも、こんな風に説明しています。
この説明に乗っかるなら、自分は年賀状について受け手になりたくないというのが本音です。
ただ、年賀状しかり、他の贈り物しかり、「これは自分宛のメッセージではないんだ」とシャットアウトしてしまうと成熟への道が閉ざされる気もしています。なんというか、それこそ不義理で偏屈な頑固オヤジになっちゃうんじゃないかと。
他方、何でもかんでも「これは自分宛のメッセージだ、自分宛の贈り物だ」と思うのも無理があると感じます。この記事もそうですけど、今の世の中は至る所で発信がおこなわれていて、メッセージ、主張、投稿、コンテンツだらけになっています。それら全てを受信すると、簡単に情報に溺れてしまうでしょう。
では、受け手としてどのような態度や感度が望ましいのか。これが、今後3人で意見を交わしてみたいことの1つです。望ましい受け手のあり方。僕は今のところいい考えが浮かびません。直感を信じる、なんだか説明できないけど自分宛のような気がするものを受信してみる、くらいしか言えないです。
「受け手としてどのような態度や感度が望ましいのか」という問いを出させてもらいましたが、反対に「望ましい送り手の在り方とはどういうものか」も気になっています。
それこそ、発信過多な現代社会において、これまで引き継いできた魂をどのようにパスしていくのか、あるいは、パスできなくてもとりあえず伝えたらOKなのか。
僕はフリースクールなどで子どもたちに語るとき、いつも塩梅に悩みます。それこそ、是が非でも聞いてくれという気持ちなのですが、僕にとっての年賀状と同じように、「いや、今は受け取りたくないよ」と思われることもあるでしょうし。
誰もが簡単に発信できる現代において、受け手としてどのような態度や感度が望ましいのか。あるいは、望ましい送り手の在り方とはどういうものか。
テクニックな切り口もあるでしょうし、心情面から話せることもあるだろうなという、フワッとした問いを投げかけさせてもらいました。モースの『贈与論』に全然触れてなくてごめんなさい。
上野くんや仙仁さんが扱いたいところはもっと『贈与論』に寄ったところだったなら、遠慮なくそっちに話を寄せてくれて構いません。
『贈与論』に関する勉強もしますが、お返事を待っている間、これまで出会ってきた人たちの中で、僕が「この人は良い受け手だ」と思う人についても考えてみます。いわゆる、傾聴やコーチングのようなスキルに熟達さえしていればOKではないんだろうなと感じています。
人との話に限らず、もっと広い枠組み。
古今和歌集に、秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる という歌がありますが、この「おどろかれぬる」人が良い受け手になりえる気がしています。だって、風の音だけで秋だと思うなんて、かなり自発的に受け取りにいっている気がしませんか。魂を。
初回なのをいいことに、好きなように書かせていただきました。次は上野くんでも仙仁さんでも、どちらから書いていただいても構いません。
来年の桜の花が咲く頃にこの往復書簡が終わっていたら、万々歳だと思います。じっくりゆっくりやっていきましょう。
それでは、また。