44. 介護生活
11月ちょうど50歳になる誕生日前だった。この数年エアビーを通じて収入にしていた南青山のフラットは、その少し前に管理組合からエアビー禁止勧告を受けてしまったこともあり、すぐに処分することに決めた。私が”実家分室”と呼んでいた父と母から受け継いだ財産だったから手放すのは悲しかったけれど、まだまだ放射能汚染を気にしていた私は、もう東京に住むことはないだろうと思っていたし、東京オリンピック前で売却しやすいうちに売ろうと考えたのだ。
思惑通りマーケットの価格よりも少し高目の私の言い値ですぐに買い手が数人ほど見つかったし、結局購入時よりも少しだけ高く売れた。そのお金で友人の会社設立といくつかの信託商品に投資をした。銀行に現金を預けて寝かしておくだけというのが、どんなに損な事なのか、その時に気がついたからだ。なるべく早く、現金は何か将来的にお金を生み出すものに変換させるか、コツコツ増えていく株などに置き換えないと、そのまま持っていれば、長期的に見れば物価の上昇と共に目減りしてしまうのだ。とは言え、あまり知識がなかったことで税金面や手数料で損をしたり失敗をした。何にでも言えるけれど、自分である程度、実践したり痛い目を見ないと学べないものなのかもしれない。
話は介護生活に入る。お手伝いさんに教えてもらいながら早速、父の介護を始めたが、最初は色々かなりショックだった。親が年老いて弱くなるのを見るというのは複雑なものだ。あんなにいつも格好良くして強かった父が”オムツ”をしなくてはならない。
お世話させていただくことをありがたいこと、として捉えていたけれど正直その事実を見た時、ここから更に悪くなっていくわけだからショックを受けないようにしようと一生懸命な自分もいた。『こんなことぐらいで動じてはならない、慣れなくてはならない』
トイレまで連れて行ってもらってから、本人は自分で”コト”を致すのだが、漏れてしまうこともある。最後の最後まで、寝たきりになる直前までそれはそうだった。彼なりのプライドだったのだろう。思い返せば盛大なお漏らしも何度かあって、それを笑いにしてしまえるだけの空気感があって、それらは全部楽しかった思い出となった。しっかりしていた時の父だけを覚えていたかった自分は、もうその時点で存在していなかった。本人も自分が弱くなってしまったことを認めていたからこそ、私に冗談にされても、笑いながらそれらをやり過ごすようになったのだろう。以前だったらそんな父は考えられなかった。とにかく全てを笑いにした。それに付き合ってくれた父は、あんなになってもやはり寛大な親だったな、、と。今になって解ることもある。
父の性格はとても極端だった。往々にして気前が良く、優しくてユーモアのセンスもあり家族を笑いの渦に巻き込むこともあれば、自己中心的で全てが思い通りでなければ、特に身近な人に対して言葉を含め暴力的だった。自分の思い通りに物事がなされなければ不満に思うとか、ストレスに感じるなど、はっきりと父の性質が自分の中にあることが見て取れる。今では、全ての性質はネガティブに傾けるもポジティブに傾けるも、本人次第なのだと思っている。彼の炎のような性質は、何かを成し遂げる情熱の炎にもなり強いリーダーシップを発揮するが、何かを焼き払ってしまう炎にもなった。だからこそ私は、自分の性質をポジティブに傾ける扱い方を学び、練習を積んでいるのだと思う。この頃には瞑想は習慣化し、”ゾーン”に入るのが少し容易くなり、サウンドヒーリングなどを学んだりしていた。曲制作は自分のスキルのメンテナンス程度に行った。
また、父は几帳面で、段々とそれが”異常”なまでになって行った。昔から、全ての物の位置にこだわりがあり、それが少しでもズレているとすぐに誰かに直させる。時にはひどく怒る人だった。周りが一番苦労したところでもある。そんな父は、毎朝、自分の身の回りのものを丁寧に時間をかけて、ミリ単位で整えるのだった。時には1時間でもずーっと自分の座っている椅子の位置を直していた。
「お父さん、それいつ出来るの?」「うん、、完成はないんだ」
それはちょっと哲学的な響きで、昔、父が私に言った言葉とも通じていた。「お前に言っておくぞ。どんなに頑張っても絶対に完璧というものはないんだ。そう分かっていたとしてもその完璧を目指さしてやるんだ」何を完璧と思うかは人それぞれだけど、確かに彼は、時に人を巻き込んで、彼の思う完璧を頑ななまでに目指した人生だったなと思う。自分もそういうところが往々にしてあったが、いろいろな経験を経て自分の”完璧”の定義は変わり、理想の自分と完璧な自分は違うのだと知り、不完全すらも完璧なのだと思うようになった。
通称’NVC’と呼ばれる’ノンバイオレント‧コミュニケーション’というメソッドを伝えている丹羽順子ちゃんという友人がいる。コスタリカ‧ノサラもウェルネスシーンが進んでいるところなのだが、普段はそこに住んでいて、男女のリレーションシップのことや女性性の事を、意識的な観点で学び実践を積み、NVC、ブレスワーク、セクシャリティーについてオンラインコースやリトリートを開催して、日本の人々に伝え広めている女性だ。
最初、このツールのことをネーミングからの勝手な想像で、暴力的な話し方をせずに穏やかな話し方をするコミュニケーション法なのかと勘違いをしたのだが、彼女のオンラインクラスを受けてみると、それは全くの誤解だった。個人の関係から国際関係までのあらゆる人間関係、そして自分自身との関係を良好に築くためのコミュニケーション方法で、体系化されたプロセスにより、相手との間に共感と理解が生まれやすく、対立や衝突を回避する為のツールで『全人類が習得し学校の必須科目にするべきだ』とまで思うほどのメソッドだ。
中でも私にとって一番の学びは、対立の感情やザワザワとする気持ちが沸いた時、相手にそのような気持ちにさせられた事に対しての責任の所在を追求するでなく、自分のこだわりや思い込みや道徳感などが原因でその気持ちは起きているという事で、そのことを分かってから自分の価値観や考え方に気づくようになれたことだった。以前ディクシャを知った時も、感情の揺れは、自分の”こうであるべきという思い込み”が生んでいると習っていたが、理解がそこまで及んでいなかったのだ。
今持ってなかなか実生活の会話の中に落とし込むのは難しいのだが、それでも自分の物事の捉え方が徐々に変わり、いらないこだわりを削ぎ落とすことに務め、落とせないものに関しては、相手の考えや大事にしている信条は、自分とは同じではないということを、きちんと理解することを心がけている。
話の聞き方も、このコミュニケーション法は体系化しているのだが、これの実践は本当に難しい。励ましたり、自分もだよと同調したり、アドバイスしたり、話を折ってしまったり、これらの行為は全てNGだとされている。聞くときは、全身全霊で相手がどんな気持ちになったのかに共感して聞き、先入観なしに相手の気持ちを理解することにフォーカスするのだ。自分への共感も同じだ。
父の介護をしている時に、自分がここまで理解を深めていれば、もう少し自分の気持ちも楽で、父の気持ちにも共感してあげられたのではないかと思う。当時、病気が進行して意思の疎通が難しくなってきた父が、私達に伝わらないことでキレてしまう事が度々あって、時にはこちらもキレてしまう事があった。冷静になれば「仕方がない」と分かっていても、昔の癇癪持ちな父と重ね合わせてしまい、コントロールされまいとする抵抗と、爆発的な怒りで反応してしまった事もあった。
こちらの落ち度ではないことで父がキレてしまうのを『そういう性格を直すべきは父』だとしていたし、時には「謝るまで許さない」と言う態度を貫き、父に謝らせたりもしていた。NVC流、もしくは悟りの観点で言えば、それは単なる自分の”こだわり”や”思い込み””固定観念”などに囚われているだけ。『かくあるべき』『なぜ理解できないのか?』『どう見たって正しいのはこちら』自分には白でも、相手には黒にしか見えないこともある。私の中にある『間違っている場合は謝るべき』『正しさと間違い』という観念が自分の怒りを生んでいたと思う。
キレてる人に対して共感し、自分の気持ちを観察して整理してコミュニケーションをとるのは、理性の中では出来るかもしれないが、実際、直面すると難しいものだ。結局父に対してそれが出来たのは一度きりだった。
ただ、ストレスも多かったけれど、ほぼほぼ朗らかに過ごせていたし、笑いが沢山あったし、国の補助金や介護施設のデイサービスなどを使って、幸いお手伝いさんもいて私の介護生活は恵まれていたと思う。最初の一年は車椅子などを使って支えがあれば少しは歩いて出かけられていたのもあって、私達はお手伝いさん含めた三人、もしくは父と私の二人でカフェやレストランに出かけたり、1年の行事ごとを楽しみ、桜を見たり、祭りに行ったり、温泉旅行に行ったり、初めて初詣に一緒に行ったりして、子供時代に憧れていた親子っぽい関係性を築くことが出来た。しかも歩くことが不自由になっている父を支えなければならないことで、父と腕を組んで歩くことが、密かに私の楽しみでもあった。良い時間を沢山過ごしたのである。