名刺

[小説]名刺

※この短編小説は、私のブログ記事「3ヶ月で小説を書く方法(Week1)」で示した方法で、私自身が書いてみたもの。小説ライティングハウツーものによくある「リレー形式」だが、ひとりで、1作品のみ行ったため、リレー形式に求められる多様性や展開の意外性に欠いている。5分間のタイマーを用いた。5分書いて5分休憩、これを10ターン繰り返した。休憩中には為替市場の動向に注目していた。書いたことを忘れるためである。しかしどうしても、リレーすることで導入したい分断線が生まれるよりも、連続性が目立ってしまった。ターンの始まりには【1】というようにマークした。

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【1】私がある男に名刺を渡したときの話だ。通り一遍のビジネス上の挨拶を交わしたあと、その男は私の名刺をじっくりと見つめ、それからしげしげと眺め回し、両手のひらのうえでさまざまな角度を持たせて、そこになにかロールシャッハ・テスト的な秘密が隠されているのではないかと訝しむように、目を近づけたり離したりしていた。

 それからその男はこう言った。

「あなたの名前を、私は以前から知っていたような気がするのですよ」

「そうですか。よくある名前ですからね」と私は言った。その男とはそのときが初対面だった。【2】その男とアポイントメントをとったのは私の上司で、彼と会合する役目が私に決定したのは、約束の時間のわずか一時間半前のことだった。

「いやしかし……。ふうむ。……不思議なこともあるものですな」とその男は言った。なにが不思議なのか、私にはよくわからなかった。ええ、とだけ、相槌を打った。

「失礼。どうぞおかけください」男は私に着席をうながした。私は、失礼します、と小声で言って、ソファに腰をかけた。やわらかすぎてかえって座り心地がよくないのではないかと思えるソファだった。【3】地中の奥深く、どこまでも落下していくように感じた。その感覚は不快ではなかった。そのまま目を閉じて、永遠に落下してく感覚を味わい続けたい、と私は思った。男の声で、私は我に返った。

「いやあ。あなたとは、確かに、初対面なんですよ。それは私もよくわかっているのです。私は名前を忘れることはあっても、顔を忘れることはないんですよ。ええ。あなたとお会いするのは、確かに今日が初めてです。これは断言できます」

 男には、確信のようなものがあった。男は昔見たテレビアニメの科学者のような風貌をしていた。【4】ひそかに「博士」というニックネームでよばれているのではないかと、私は思った。その風貌は確かに印象的だったから、私の方でも、彼に会うのが初めてであると、確信していた。

「ええ。お初にお目にかかります」と私は言った。しかし男の態度には、並々ならぬ興奮と好奇心が感じられ、そのような社交辞令では、なにかが足りないような気がした。私はこういうときにどう答えればよいのだろうと、頭を回転させようとした。しかし相変わらずやわらかすぎるソファは、私が思考を進めることを妨害していた。私はとりあえず姿勢を正した。【5】

「新聞かなにかでお見かけしたんでしょうか」と私は付け加えた。

 男は少し考え込んだ。私の示唆を、まじめに考察してみる、とでもいうふうに。私は心の中で、博士、考察す、とつぶやいた。

「この名前、失礼、君の名前が、なにか悪い印象と結びついているというわけではないのですよ。だから……仮に君がなにか過去に犯罪でも犯して、その容疑者だった、ということは考えられないんだな。……いや失礼。仮の話ですよ」

「ええ、仮の話ですね」と私は言った。面白い仮説をうかがう助手のような気分だった。私は心の中で、博士、仮説が却下されましたね、とつぶやいた。

【6】「いや、さっきから申し訳ないね。君の名前に、確かに見覚えがあってね。聞き覚えかもしれないがね。どこかで目にしたか、耳にしたか。そしてそれが非常に重要なできごとと、固く結びついているんですよ。私の心の中で。それも、そんなに昔のことじゃない。子どものころに会った誰かとか、学生時代に知り合いだった誰かとか、そんなんじゃない。少なくともここ十年以内のできごとだ」と男は言った。

「私が今の会社で働き出してから、十年ちょっとたちますね」私は再び姿勢を崩した。【7】ソファの誘惑に、またずるずると引きずり込まれはじめた。「弊社と御社の取引が過去にあったという事実はありませんから、私とどこかで知り合った可能性はありませんね。私はずっと事務の仕事をしていましたし、プライベートでもほとんど外出すらしないタイプなので」と私は言った。
男はテーブルの上に私の名刺を置いたまま、じっとそれを見つめていた。ときどき目を閉じて瞑想しているようだった。まばたきの代わりに瞑想に入る、みたいな感じだった。【8】ソファの海にどこまでも沈んでいきながら、そんな生活態度も悪くないな、と私は思った。まばたきの代わりに瞑想する。ときどき覚醒して、じっとなにかに集中する。

 私はすでに商談という目的をほとんど忘れかけていた。

「こうしてはどうでしょう。その名前がなにか、できごとに結びついている。としたら、そのできごとの方を、順を追って思い出してみるんです。そうすれば、その名前がどこでどう関係してきたのか、思い出すかもしれません。記憶にかんするなにかの雑誌記事で読んだ方法ですけどね。思い出せないときに思い出す方法、とかなんとかいう」と私は言った。

 男はテーブル上の名刺への集中を一度ストップし、リラックスするように姿勢を崩した。

「私の妻は二十年前には死んでいる。子どもはいない」【9】男は確かめるように、ひとつひとつ丁寧に言葉を選ぶように言った。私はそれを、教会でなされる告解を聞く神父か牧師のようにあたたかい気持ちで、うなずきながら聞いていた。

「この会社でどういうプロジェクトが動いているのか、私は知らんのですよ。ホウレンソウ禁止でね。報告・連絡・相談、一切禁止。私が知らんうちに、いつのまにか九州に営業所ができていたことがあったなあ。現場に責任と権限を十分に与える。そうすると勝手に社員の連中が利益をあげてくる。社長なんてものは、数字をにらんでいるだけの仕事です」【10】男は告白するように言った。私は軽く相槌だけを打っていた。気持ちはソファの海の底に向かって、心地よいスピードで落下を続けていた。


「若い人たちがときどき来てね。起業のアドバイスを求められるんですわ。あんまり今の若い人たちがやってるビジネスのことはわからんですけどね。それでもアイデアに光るものがあるかどうかはわかるもんです。そういうときは、準備資金を出すんです。若い人の言葉ではエンジェル投資家っていうらしいですがね、私みたいのを。株式を少しばかりもらうんです。この十年で失敗していく若い人も、成功していく若い人も、たくさん見てきましたけどね、だいたい成功した会社を、今の若い人は、売っちまうんですな。バイアウトって言うらしいけど、それが今の若い人にとっての成功なんでしょうな。そういう成功した会社を買うのは、たいてい大企業です。大企業が吸収していく。起業した才能ある若い人たちは、その会社を出て、また次の起業を考える。私は彼らの株を買ったことなんか忘れてるんだけど、ある日突然、株の譲渡を求めに来る連中がいる。大企業ですわ。買ったときの何十倍何百倍の値段を提示されるんだけど、私は値段を吊りあげる交渉なんかしませんよ。自分の会社のことじゃないですから。自分の会社のことも弁護士と会計士に任せてあるから口出しはほとんどしませんがね。そんなこんなで資産は年々、倍に倍に増えていく。そうすると、若い人の手助けが、どんどんやりやすくなっていく。まあ、私は子どもがいないから、子育てのことはわからんですが、勝手に巣立っていった子どもたちが、勝手に成長して、勝手に恩返しに来るようなもんですかな」男はそこまで話すと、ひと区切り入れるように、テーブルの上の名刺を指でパチンとはじいた。

 私はその瞬間に海の底に辿り着いた。男は思い出したかのように、声のトーンを変えて言った。

「それで、ご用件はなんでしたかな?」


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