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ATフィールドと心の壁を考える

先日、ある知人からこう言われた。

あなたは誰に対しても態度を変えないのね

良い意味で、誰に対しても表裏のない態度だ、と評価してくれた発言だったと思いたいが、そう言われて気がついたことがあった。それは、

オタクはただただ、自分自身で居たいだけ

ということだ。相手ごとに仮面を取り替えて、誰にも好印象を提供できるような器用さは持ち合わせていない。むしろ仮面がうまくハマりすぎて偽装が奏功してしまいそうになる時、そのおかげで人間関係が弾んでしまいそうになる時、心の奥の「そうじゃナイ感」に居たたまれなくなる。こんなの自分じゃない、ニセモノの自分を演じているのが気持ち悪くて無理!

上のリンク先記事で分かりやすく書かれているが、自分のようなタイプは内向型で、言葉でじゃれ合ってコミュニケーションをするのが楽しくない(できなくはない、念の為。だけど疲れるからしたくない)だけなのだ。内気と内向型は違うということもこの記事に書かれている。ビル・ゲイツが内気ではない内向型で「人の意見に動じることがなかった」という一文にストンと腑に落ちるものがあった。

世間では「無意味なおしゃべりが円滑なコミュニケーションを生む」と、無条件にそれをおしつけられるのだが、内向型にとっては苦痛でしか無い。一般社会とは、外向型同士だけで機能するインターフェースでできていて、それに合わせられない個人に対しては、コミュニケーション不全のレッテルを貼る。コミュ障ってやつだ。

そうではない!これは一般社会の暗黙のルールたるインターフェースの不備であり、少数派の尊厳をなきものとするシステムそのものの機能不全ではないか!ずっと日陰者の存在であった我々オタクは社会に迷惑をかけないよう、ひっそりと生きてきたわけだが、気がつけばオタクも随分国際的になりあちこちに増殖してきた。マジョリティとは言わないまでも、否応なしに社会も存在を認めざるを得なくなったのだ。

それに大きな影響があったのが、日本の漫画やアニメなのではないか?創作者たちがオタクだったからという「だけ」ではないだろう。物語に登場する主人公たちが、自分は何者かと自問したり、自分の存在意義を問いかけ、自分の殻を破って本心と向き合ったり、ありのままの自分を見出したり、ギスギスした人間関係を忌避して迷走したり。そのハシリはエヴァンゲリオンやガンダムは言うに及ばず、マンガも含めればいくらでも同じ骨格や込められたメッセージがみつかるだろう。

個人的にエヴァンゲリオンがエポックであったのは、心の壁をATフィールドと表現したことだ。敵である使徒のバリヤーに付けられた呼称のATフィールドが、実は人間が持っている個と個を分け隔てる心の壁だという、こじつけもここまでくれば「大車輪」級の発明、そしてそのATフィールドが、防御だけでなく攻撃にも使えることが描かれたことは、外向型人間のルールに振り回されてきた内向型オタクには大きなインパクトだった。

このアイディアがどのようにしてもたらされたのか?

シン・エヴァンゲリオン劇場版でのゲンドウの独白から想像すると、ありのままの自分として生きることを許さなかった社会の理不尽が彼を追い詰め、抑欝された思いは潜在的に社会への復讐をもくろみ、人類全体を巻き込んだ父子喧嘩へと行き着き、最後には対話を望んだ息子シンジを恐れて自らATフィールドを展開してしまったことに気付かされた自分自身の弱さを自覚する。これはオタクの内面で、この何十年かで起きている歴史そのものではないのか?

オタクでなくとも、誰もが向き合い、うまくいけば自分自身で気づくことができる内容だ。自分が何故傷つき、何を恐れて社会から距離を置き、近づいてくる相手を傷つけてまでいったい何を守りたかったのか?

歳をとった今、それが案外ささやかなものであり、相手を恐れ自分を守りたい一心でATフィールドを振りかざさなくても守ることができる、と腑に落ちた。自分も社会も、そういったオタクの生き方にまでとやかく言わない言わせない、そんなふうに変わってきているようにも思う。

シン・エヴァンゲリオン劇場版のラストの納得感・飛翔感から、そんなことを長い時間かけて考えてみた。観客、業界、スタッフ、声優たち、監督ともに、長い時間をかけて問い続け、そういう境地に到達したのではないか、と。



一旦書き終えて何度か読み直しているうちに、きっと誰かが同じようなことを書き残しているはずだと思いたち、Wikipedia を調べてみた。いくつか引用してみたい:

批評家の東浩紀は本作品について「大傑作。監督とスタッフを称えたい」「エヴァはあまりに大きなものを背負わされてきた」「そのすべてに応え、四半世紀にわたり伸び切った伏線を回収するのは不可能に近かったが、新作は見事にやってのけている」と肯定的に評価し、「このような複雑で野心的な作品が、これほどの長い時間をかけて制作され、これほどの数の観客が見る社会に生きていることを、僕は幸せに思う。ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン」と締めくくっている[285][286]

https://ja.wikipedia.org/wiki/シン・エヴァンゲリオン劇場版

精神科医の斎藤環は本作品を、エヴァというロボットアニメのふりをした「承認をめぐるサーガ」と位置づけ、「1人の作家と彼が制作した物語とその熱心な消費者が「承認」というテーマのもとで相互浸透しつつ影響を及ぼし合う中から生成し続けた」と語り、「それ故に本作は、傑作アニメという評価に留まらず、作家の苦闘と成長の記録にして優れた歴史的ドキュメントでもありえた(メタ・ビルドゥングスロマン)」「こんな作品は二度と作られ得ない。作家と物語、消費者と社会のそれぞれが、「承認」をめぐってシンクロし続けると言う事態そのものが、一回限りの奇跡でしかないからだ」と評した[288]

https://ja.wikipedia.org/wiki/シン・エヴァンゲリオン劇場版

製作者や監督のみならず、観客や社会も変わってきたという見方には同感である。これがオタクから世間への逆襲の狼煙となるのか、それとも穏やかに世間を(気づかれないうちに)変容させていくのか?

その未来が少し楽しみになってきた今日このごろである。
(※書き始めたのはシンエヴァ公開の頃だったのに、今頃になってようやく書き終えた(^^;)


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