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我らは高畑監督から何を受け取ったのか?

最初に白状するが、高畑勲監督の映画をほとんど見たことがない。宮崎駿の新作と思って「ぽんぽこ」を劇場で見て、ラストの監督名が高畑勲だったのに初めて気がつくくらい、ネット黎明期の当時は情報弱者だった。

火垂るの墓」はテレビ放映を何度か目にしたが、ちゃんと全編通して見たことがない。そんな日本人というかアニメファンいるの?と言われても仕方ないくらい、何故か高畑勲の映画作品を無意識に避けていたようだ。

しかし、今でも強烈に覚えている作品がある。「アルプスの少女ハイジ」の本放送の、かなり終わり頃の一話(51話)だけ、リアルタイムで見たのを覚えている。本放送の頃は、ヤマトと行ったり来たりでどちらかを見ていたようだが、七色星団から後はヤマトに夢中になり、「クララが立った」あたりは再放送で見たのだと思う。

その少し前、アルムの山小屋で療養とリハビリに励むクララは、その辛さに根をあげ、おぼつかない足取りで納屋に片付けてあった車椅子を取りに行く。しかし、思うように動けないクララは車椅子を谷底に落として壊してしまう。

物音に気づいて現れたオンジにクララは「おじいさん、私恥ずかしい」と言って泣き崩れる。状況から何が起こったのかは明らかであるし、聡明なクララはそこで何も言い訳をせずに自分の感情を吐露する方を選んだのだ。

当時自分は中1だったと思うが、このシーンを見てすぐには何がそれほど印象的だったのか、何を感じたのかよく分からなかったが、しばらくして言語化できたのは「ちゃんと自分の弱さを認められるクララって立派だな、下手な言い訳をしないんだな」と言うことだった。

その後何十年も経ってから、このクララのセリフが原作にはないことを知って衝撃を受けた。シュピリの原作では、クララにハイジを取られたと嫉妬したペーターが意図的に車椅子を谷底につき落とすのである!「そんなの我々が知るぺーターじゃない!」「彼はそんなことする子じゃない!」とアニメを見た多くの人は思うだろう。実はTV版のペーターの性格も含めて、これらは高畑勲の創作だったのだ。

この変更に関しては叶精二氏のブログ記事で読んだのだと思う。

「ハイジ」では、「シュピリになりかわって」大量のオリジナルエピソードが創作された。前半部のアルムの山小屋での生活描写は原作の数倍で、四季が丁寧に綴られている。

(中略)

また、ペーターはクララにハイジを独占されることに腹を立て、車椅子を崖から突き落とし壊してしまう。以降彼は、ずっと罪の意識にさいなまれるが、物語の最後に宗教的な免罪が語られる。

高畑演出ではこれを丸ごと変更。ペーターはクララを気遣って牧場まで背負って登る優しい少年(45話)である。この改変により、ペーターをめぐる「罪と罰」の訓話的要素が取り除かれた。底抜けに明るい子供たちの遊びが浮上した。

(中略)

車椅子は、クララ自身が「頼りたくない」と決意して一端しまい込んだものの、弱気になってこっそり納屋から出そうとして壊してしまう(51話)。この時、クララは辛いリハビリから逃げ出そうとした自らを恥じ、本格的な歩行訓練を決意することになる。他人に依存しながら没主体的に訓練するクララではなく、己の意志で車椅子を捨てて「共に歩きたい」「走りたい」と心身共に葛藤する姿が鮮明になった。自分自身との闘いに勝って初めて歩けたのである。

「アルプスの少女ハイジ」で高畑演出が目指したもの
文責/叶 精二

噂では、高畑監督には当時ハイジやクララくらいの娘さんがいたようで、このオリジナル部分は彼女らに向けたメッセージでは無いかと感じた。これからの人生で辛い事があっても、逃げても良いんだよ、でもそれも含めて自分と正直に向き合うんだよ、それが結局は良い結果に結びつくのだよ、というような。その後のクララの決心も含め、なんと高畑演出は原作をより深く豊かに色付けしたことか!

自分も見た頃にはその深い意味は分からなかったが、おそらく大多数の子供達も同様だったろう。それでも心に刻まれたこのシーンの意味は、その後何人もの大きくなった子供達を救ったに違いない。自分も救われた1人だ。
何年も、何十年も経っても思い出して意味を考えるシーンはアニメでも映画でもTVドラマでも貴重なものだ。自分にとってはそれらの中でも大切なシーンの一つである。


ただ、これだけでは自分が高畑勲に影響されている、とまでは言えまい。

そう思うようになったのは、ガンダムの富野由悠季監督が、高畑勲の逝去あたりから「自分は高畑勲の弟子だ」「高畑勲は自分の師匠だ」ということを言い出したことがあるだろう。

「対象への理解が正確でなければならない、ということを追求してきた監督が高畑勲です」

「名作劇場シリーズの打ち合わせで、一人のキャラが400字詰めの原稿用紙2枚分喋るシーンがありました。ロボットものならワンカット5秒でも長いのに、何人かが焚き火しながら話しているだけのワンカットに1分以上もある。だから『このシナリオの通りで切っていいんですか? 長すぎるから整理したいんですけど』と高畑さんに聞くと、『駄目ですよ。だってシナリオはそう書いてあるから。もしかしてセリフわからない?』『いや、分かりますよ』『あなたがわかったなら、それでいいじゃない』と。理由を聞いても『子供は分かれば見る』としか説明してくれませんでした。そんなコンテは楽でいいですよ、でも子どもがこれを見てられるの? と疑問に思っていました」(富野氏)

 だが、それは言ってしまえば「子どもの理解力を舐めるなよ」という話でもある。それを高畑さんに教えられたと富野氏は振り返る。

「つまり、1分耐えられるセリフやストーリーが作れるのか、それがアニメの勝負だと教えられたんです。それに気づいたのはその仕事の20年後ですが、逆にいうと、高畑勲という人はずっとその方法論でやってきた方なのです。そういった意味でも、僕は高畑さんの“影響下”で仕事をしていた」と、“高畑イズム”の影響を富野氏は語った。

富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム”
「高畑さんは僕にとっても師匠」
https://www.oricon.co.jp/special/51017/

2019年に福岡市美術館から始まった「富野由悠季の世界」展でも、高畑勲に直されたハイジの絵コンテが展示されていた。

曰く、嘘っぽくない演出やセリフ、展開、伏線などなど、ガンダムをそれまでのロボットアニメと違うものにならしめた、あらゆる細部に高畑イズムは染み込んでいるではないか?

これが高畑イズムだという証拠は何もないが、個人的に印象に残っている場面を引用してみたい。ファースト・ガンダム第21話「ランバ・ラル特攻!」から:

マイン:「隊長、怪しい奴を捕まえました」
ラル:「スパイか?」
サグレド:「は、行動不審の女が」
フラウ:「あっ!」

ラル:「なんだ、子供じゃないか」
アムロ:「フラウ・ボゥ!」
ハモン:「あなたのお友達ね?
アムロ:「え、ええ」

サグレド:「や、しかし、こいつの着ているのは連邦軍の制服です」
ラル:「そうかな?ちょっと違うぞ」
サグレド:「間違いありません」
ラル:「そうなのか?ハモン」
ハモン:「さ、そうらしいけど。
その子、この子のガールフレンドですって

ラル:「ほう・・・」
フラウ:「アムロ!」
ラル:「放してやれ!」

マイン:「や、しかし!」
ラル:「いいから」
いい目をしているな

アムロ:「は・・・」
ラル:「フフフ、それにしてもいい度胸だ。ますます気に入ったよ。ア、アムロとかいったな?」
アムロ:「はい」

ラル:「しかし、戦場で会ったらこうはいかんぞ。頑張れよ、アムロ君」
アムロ:「は、はい、ラ、ランバ・ラルさんも、ハモンさんも、ありがとうございました」

フラウ:「アムロ」
アムロ:「行こう」
ハモン:「フッ」

ラル:「おい!」
ゼイガン:「は!」
ラル:「あとをつけろ、ゼイガン。この近くにいる連邦軍となれば木馬ぐらいしかおらんはずだ」
ゼイガン:「はっ!」

(中略)

フラウ:「さっきの女の人が見ていたからあたしと手をつなぐのやめたんでしょ?
アムロ:「違うよ」
フラウ:「嘘。どんどんあたしから離れて行っちゃうのね、アムロ」

セリフは以下のサイトより引用
https://gundamserifu.blog.fc2.com/blog-entry-24.html
ハモンとアムロの出会いのシーン、アムロはこのハモンの姿に目が離せなくなる。
自分を凝視するアムロにハモンも気づき、かすかに微笑を返しお互いを認識する。
それに応えるように、ハモンはアムロにも食事をと提案する。

台詞の間には、自分が連邦軍とバレたアムロがマントの下に隠していた拳銃を握っているのをラルに見つけられ、それを撃つ蛮勇はないが情勢を見極める頭脳はあると思われたのか、敢えて見逃すラルの余裕を見せつけられるドラマチックな展開があるのだが、自分はこの場面に二人しかいない女性であるハモンとフラウ・ボウの演技が、初見以来とても印象に残っている。

ハモンの「その子、この子のガールフレンドですって」というセリフは、本気で怒っている訳では無いだろうが、自分が「あなたを気に入っている」と言ったばかりなのに、すぐ女を連れてくるなんて!(決して連れてきた訳では無い)という、かすかなヤッカミを込めて?「ガールフレンド」と意味を上乗せした(直前にクールな顔つきでアムロに「あなたのお友達ね?」と問いかけているのに)強引さを感じ取ることができる。ハモンの表の意図としては、ラルにアムロとフラウが単なる知り合い以上の関係だと知らせるためであろう。この二人は取扱い注意だ!と。しかしクールな女の意識下の本能的・反射的な部分は、フラウに対して牽制している、という演技だったのではないか?

この「ガールフレンド」というハモンの言葉を聞いて、フラウは初めてハモンとアムロを意識する(そこまでフラウの顔が止まったままなのもあるのだが)。ハモンが意図したとおりに?「あなたのボーイフレンドは今、私に意識が向いているのよ?」と言わんばかりに?

フラウも、店から出たかどうかというタイミングで自分の手を離すアムロに対し「さっきの女の人が見ていたからあたしと手をつなぐのやめたんでしょ?」と問い詰める。敵に捕えられたというヤバい場面を乗り切ったという安堵よりも、あの場にいたほんの一瞬で、アムロとハモンの間に何やら怪しげな関係が成り立っていると見抜いた、というよりアムロの挙動不審から嗅ぎ取ったのだ!ドラマの進行には全く必要ないとも言えるこのセリフを敢えて言わせたのは、これらの演出が積み重なって今後のフラウとの関係、アムロとその後登場する女性たちとの関係を表す予兆としてなのだ。

しかし、同じような冷や汗をかいた経験のある男性諸氏はきっと思い当たるであろうが、こういう時、何も言わなくてもその場の空気やオーラ?だけで女性にはバレてしまうものなのだ。例え男性側がそれを意識していなかったとしても。と言うよりも、男性側が無意識であるがゆえに?

極めて緊迫したドラマの裏に、このような空気感の仕掛けを演出してのけた富野御大の力量に、高畑勲の影響を見たのかもしれないと、今になって思う。本人がそれと認識していたかどうかはともかく、高畑イズムを自分なりに消化しモノにしていった結果なのではないか?もちろん、これは単なる素人の思い込みかもしれない。が、後にイデオン10話で「カララとシェリルのビンタ合戦」を演出した御大のことだ、アニメで女性を描くということに執念すら感じ、それはこの頃からあちこちに散りばめられている気がする。

そう思って振り返ると、アムロ対ラルというマスキュリン(男性的)な対決の裏で、フラウ対ハモンというフェミニン(女性的)な対決が絡み合っていたと観ることが出来、そういう意図を込めた富野演出の最高傑作のひとつであると感じた次第である。子供向けのロボットアニメとやらに込められた、その演出の恐ろしさに気づくのは、当時の少年たちが修羅場を何度か経験したあとになるのだろうが?

きっと子どもたちは、その時すぐには意味を理解できなくても、心に刻んだ宝として、やがて自身の体験からその意味を読み解いていけるのだと思う。
それを信じた二人の監督として、決して子供の理解力を舐めなかった二人は、師弟関係にあったと同意できるのだ。


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