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一つの世界から世界の一つに(ショートストーリー)

-1-

高校を卒業する今日、私は校舎の前で振り返って、屋上を見上げた。
高2の春、ゴールデンウィークが明けて一週間経ったあの日、私の人生は終わっていたはずだった。

「卒業おめでとう、相澤」

頭の中に、これまでのことが浮かんできたとき、名前を呼ばれた。

「笠原先生……!」

私は駆け寄って、抱きつきそうになって、慌てて手を引っ込めた。

「思い出してたのか?」

「うん……」

「よく、がんばったよ、相澤」

「先生のおかげ」

「先生はキッカケを提供しただけだよ」

照れるように顔を逸らす。
笠原先生は、気さくなのに褒められるのに弱い。

「あと一ヶ月もしたら、社会人か。なんだか、感慨深いものがある……」

「先生、もしかして泣いてる?」

「気の所為だ……まあ、相澤なら社会に出ても問題なくやっていける。いろいろとまた、変なことも出てくるけど、何かにぶつかることがあったら……」

「先生に相談する」

「ああ」

「働き始めて半年したら、家を出て一人暮らしするの」

「そうなのか? 一人暮らしだと、自炊も必要になるぞ」

「大丈夫、ちゃんと練習してるし」

「さすがだ」

「ふふ、ねぇ、料理しっかりできるようになったら、食べに来る?」

「食べにって、一人暮らしの相澤の家にか?」

「うん」

「いや、それはさすがに……」

「ふふ」

私はもう一度、屋上を見上げた。
今は太陽が眩しいけど、あの頃、私の世界は光を失っていた。

-2-

(生きていても辛いだけなら、生きてる意味なんてない……)

屋上に上がった私は、足を引きずるように歩いた。
太陽が沈もうとしている町は、薄暗く、闇に飲まれたデストピアに見えた。遠くには、カラスの鳴き声と、部活で残っている生徒たちの声。きっと明日も、ここに来れば同じ風景が見えて、聞こえる。何も変わりはしない。騒ぎにはなるのだろうが、誰も悲しみはしない。教師はもちろん、同級生も、両親さえも。

端まで歩いて、下を覗く。
誰もいない。
足が震える。
でも怖いのは一瞬。
暗い地面に当たれば痛みはある、けど、それも一瞬……

「相澤」

一度顔を引っ込め、パラペットに足を乗せようと思ったとき、名前を呼ばれた。

「屋上から見る夕日って、なんだか贅沢だな」

隣のクラスの担任、笠原。
人当たりが良く、生徒からは慕われているが、教師の間では変わり者と言われている。

「な、なんで笠原先生がここに……」

「様子がいつもと違う気がした」

「来ないで! 止めても無駄……私はもう……」

「じゃあここから話す」

先生は両手を上げて、その場で話し始めた。

「相澤がクラスで孤立してるって話は、噂程度で耳にしてた。さりげなく、板野先生に聞いてみたこともある。問題ないって言われたけど」

板野は私のクラスの担任。とにかく問題が起こるのが嫌いで、生徒の行動をいちいち指示しようとする。

「問題ないってことは、問題あるんだろうと思って、失礼ながら、相澤のことを見てた。っていうと気持ち悪いと思われちゃうかもしれないけど、監視してたとか、そういうことじゃない。先生もそこまで暇ではないしな」

「何を見たのか知らないけど、笠原先生が見てても見てなくても、私の日常は何も変わらない……教師なんて、自分たちが大変になるから止めようとするだけで、助けたいと思ってるわけじゃない。そもそも誰も、私のことなんて見てない、誰も……」

「先生は……」

「笠原先生だって見てない……! 見てるのは表面だけ。自分の都合のいいように見てるだけじゃん!」

「三日前の昼、一人で弁当を食べながら、時々顔を上げて周囲を見て、悲しそうな目をしてた。二日前は、帰るときにからかわれて、言い返せないまま、涙を堪えて背中を向けた。昨日は、昼休みに本を読んでたけど、俯いてるだけで、ページはめくられてなかった。そして今日は、朝からずっと、思い詰めたような、それでいてどこか覚悟を決めているような、そんな顔をしてた」

「……!」

「そんなふうに見てたのに、声をかけなかったのは問題かもしれない。それこそ、相澤が言うように、教師は見て見ぬふりをするって事の証明かもしれない。見ていた、ということだけを言うなら」

「違うって、言うんですか……?」

「教師にも教師の立場がある……なんて言うつもりはない。立場はあるが、問題から目を背けるのは、事なかれ主義と同じだから。でも、情報が必要だったのと、その場に介入してフォローしても、問題の解決にはならない。いつも見てるわけにもいかないし、常にフォローできるわけでもない」

先生は静かに、私を咎めることも、自分を正当化することもなく、話を止めると、スーツのポケットから細長いデバイスを取り出した。

「この中には、相澤がされたことを証明する音声が入ってる」

「え……?」

「相澤を追いつめた生徒も、見て見ぬふりをした板野先生も、言い訳ができない、動かぬ証拠ってやつだ」

「いつの間に、そんなの……」

「相澤を追いつめてしまった問題を解決する方法の一つは、これだ。証拠を公表する、あるいは対象となる生徒と板野先生を呼んで、聞かせれば、事態の改善はされるだろう。まあ、公表するってなったら、上は騒ぐだろうけど」

「……」

「でも、解決策は一つじゃないと、俺は思う。それに、証拠を出すことで、一時的に事態が収束しても、いずれまた起こる。今の状態が発生する条件が変わっていないなら、時間を置いてまた始まる。学校は保守的なところが多いしなぁ」

「じゃあ、転校しろってことですか……?」

「それも一つではある」

「でもそんなの、うちの親は絶対に許さない……」

「ああ、そもそも親を説得しないと難しいやり方は、大変だしな。だから、転校は必要ない」

「じゃあどうしろって……」

「相澤、転校するって、どういうことだと思う?」

「え? 学校を変わることでしょ?」

「それは表面。中身は?」

「中身……? えっと……環境が変わる、ってことですか?」

「そう。環境が変われば、今までうまくいかなかったことが、うまくいくようになるのは珍しくない。俺の友達には、仕事がうまくいかなくて、転職したらうまくいったって奴がいる。本人のスキルは変わってないのに」

「でも、それは無理って……」

「転校が重要なんじゃない。環境を変えることが重要。もっと広げると、違う環境に触れるってことだよ」

「分からない、どういう意味……」

「このあと、塾とかあるか?」

「え? 何言ってるの先生……この状況見てよ、そんなものあるわけ……」

「じゃあ、ちょっと先生と出かけないか?」

「出かける……?」

私の頭の中から、いつの間にか飛び降りる想像が消えて、先生が何を言うとしているのか、それだけを考えるようになっていた。「出かける」の意味は分からなかったが、私は先生と一緒に、学校を出た。

-3-

私には、先生が何をしようとしているのか、分からなかった。
先生もニコニコしてるだけで、何も言わない。

生徒指導とかって、変な場所に連れて行く?
頭の中に浮かんでくるものに、前向きなものは何もなく、私はあのとき、不安と戸惑いが入り混じったような顔をしていたと思う。

「まずはここだ」

賑やかな通りを抜けて、細い路地に入り、雑居ビルが並ぶ通りを歩く。
と、先生は突然立ち止まって、四階建ての雑居ビルの二階を見上げた。
釣られて顔を上げると、絵画教室キュリオシティーという文字が飛び込んできた。

「絵画、教室……? キュリオシティーって、好奇心……?」

「よし、行こう」

「え? 先生……」

先生はビルの階段を上って、絵画教室キュリオシティーと書かれたプレートが貼ってあるドアを開けた。

「あら、笠原先生、いらっしゃい」

中から、30代半ばぐらいの女性が歩いてきて、親しげに先生と話したあと、私を見た。

「いらっしゃい」

「え? あ、はい……」

先生は奥に入っていき、椅子に座った。部屋はたぶん十五畳ぐらいで、緑色の絨毯の上に、長テーブルが4つ並んでいる。テーブルには、画用紙と色鉛筆。
呼ばれて、私も隣に座った。

「じゃあ、始めましょうか」

女性は、色鉛筆で写真のような絵を描くには、というお題で説明を始めて、ものの五分で、部屋の隅から持ってきたリンゴのオブジェの絵を描いてみせた。

「描いてみて。うまく書こうとするんじゃなく、自分の感性で描くのが大事よ」

そう言われて、私と先生は絵を描き始めた。
小さい頃、絵をたくさん描いた。
でも親は、私の絵を見ても何も言わず、勉強は終わったのかと言うだけで、トドメとなった中学二年の"あの授業"から、私は絵を描かなくなっていた。

「……」

「描き慣れてるのね」

いつの間にか集中していた私に、女性はにこやかに言った。

「え? はい、小さい頃描いてたので……」

「いいわね。絵は自分の心の内を表現する方法としても有能だから、ぜひまた描いてみて。あなたの絵、タッチが丁寧で、私好きよ」

「あ、ありがとうございます……」

わざとらしさのない、自然な言葉と表情……
私は、心の中にフワリと、羽が生えたような気がした。

やがて絵を描き終えると、女性にお礼を言って、私たちは絵画教室を出た。

「よし、次は……」

「次? まだどこかに?」

「もちろん。まだ始まったばかりだぞ」

先生は笑顔で言って、次に向かった先はボウリング場。
ここでも、どういうわけか先生は、ボウリング場の店員や店長と親しく、あまり目立たない端のレーンを使わせてもらった。ボウリングなんて何年ぶり……そんなふうに思いながら、やっているうちに、私は夢中になった。2ゲーム目は、仕事を終えた店員さんも混ざって、四人で盛り上がった。

「よし、じゃあ今日最後の場所に行こう」

ボウリングを終えて、お礼を言って出たとき、午後7時を過ぎていた。
少し家が気になったが、両親はさほど気にしない、まだこの時間なら……

先生は、繁華街を抜けて、コンビニのような建物に入っている、『攻めの本屋 実践堂』と書かれた小さな本屋さんの前で立ち止まった。

「ここが、今日最後の場所だ」

そう言って中に入り、レジカウンターの向こうに立っている、50代ぐらいの男性と女性に声を掛けてから、私を手招きした。

「ここの本屋は、店主と奥さんのこだわりで、選りすぐった本が置いてある。巷の書店に平積みされてるような本もあるし、雑誌もあるけど、中々見かけない本もあるぞ」

先生に導かれるまま、私は本屋の中を歩いた。
難しそうな本もあったが、店主の男性が一緒に付いてきて、私が気になった本を一つひとつ、解説してくれた。

「読んでいて面白いのも、本の大事な要素だけど、本は読むものじゃなく使うものというのが、私の信条なんですよ」

店主は言った。

「使うもの……」

「うちにある本は、実際に使って自分を変えていくものが多い。人によって合う合わないはあるけど、それはやってみないと分からないし、合わないなと思ったら、自分がやりやすいようにアレンジすることだってできる。私は、そうやって人の人生が良くなっていくのが、本当に嬉しいんですよ。たまに報告に来てくれる人がいてね。そのときはもう、本当に飛び上がるほど嬉しい」

目尻のシワを深くして笑う店主からは、口先だけじゃない、本当の思いが伝わってきた。

「よければ一冊、持っていってください」

店主の言葉に、私は目をパチパチさせた。

「え? 持って行くって……?」

「笠原さんが連れてきた生徒さんだ。笠原さんはうちの常連さんでね、毎月たくさん本を買って、読んだ感想や、実践してみた結果を教えてくれる。ぜひあなたも、使ってみた感想を聞かせてくれませんか?」

「え、でも……」

戸惑いの視線を向けると、先生は微笑みながら頷いた。

「感想を聞かせてもらう。それが代金だと思ってください」

店主に言われ、ためらいは残ったものの、気になった本を一冊手に取った。二週間後にまた、先生と一緒に店に来る約束をして。

本屋さんを出たとき、午後8時を過ぎていて、先生は私を家の近くまで送ってくれた。

「先生、あの……」

「明日の放課後も時間あるか?」

「え? あ、はい、たぶん……」

「じゃあ、明日はまた、違う世界に触れよう」

先生は、それだけ言い残して帰っていき、私は家に帰った。
両親はもう家にいて、遅かったわねと言われたが、友達と遊んでたと言ってごまかし、自分の部屋に入って、いただいた本を開いた。

ほんの3時間ほど前まで、私は人生という本を、閉じようとしていた。
何も良いことはない、生きていてもしょうがない、そう思っていた。
なのに今は、夕飯も忘れてページをめくり、明日が待ち遠しいとさえ感じている……

何度も母親に呼ばれて、夕食を食べているときも、頭の中は、絵画教室やボウリング、本屋さん、いただいた本のことで頭がいっぱいで、何を食べたのかあまり分からないまま食事を終え、部屋に戻ると、しおりを取って本の世界に入った。

本は使うもの。

その言葉どおり、私は未使用のノートに、使うことを前提としたメモを書いていった。
1時過ぎになって眠気が出てきて、読みたい気持ちと、ページをめくるだけになるのは嫌だという思いがぶつかり、私はベッドに潜った。

-4-

翌日の朝は、少し憂鬱だった。
本とノートをカバンに入れると、少し気分が落ち着いたが、昼間は相変わらずで、屋上に上る自分が過った。
放課後になって、笠原先生の顔を見ると、自然、気持ちは明るくなって、私は先生に連れられ、再び街に出た。

書道、ボルダリング、ビリヤード……昨日と同じように、どの場所にも先生の知り合いがいて、誰もが優しく、親切に、彼らが住む世界の楽しさを教えてくれた。

「お、時期に8時だな。そろそろ帰るか」

腕時計に目をやって、先生は言った。

「先生」

「ん?」

「先生の言ったこと、分かった気がする」

「環境をって話か?」

「うん。
私、家と学校の往復で、バイトもしてみたことあるけど、自分に自信がないから、うまくできなくて……」

「立ったままじゃあれだし、あのベンチに座るか」

先生が指さした、街路樹の道の途中に置かれたベンチに座って、私は続けた。

「家と学校が、私の世界のすべてだった。その両方でうまくいかない、一人ぼっちで苦しいだけ、だったら生きててもしょうがないって思ったの」

「それが、相澤を屋上に上らせた理由だったんだな」

「うん。
あのね、先生」

「うん」

「私、中学のときに、描いた絵を美術の先生に晒し者にされたの。その頃、絵を描くのが好きで、誰にも認めてもらえなかったけど、楽しかった。でもあの日、美術の先生が言ったのとは違うやり方で描いたら、指示通りにしなかったことをすごく怒られて、黒板に張り出されて、私の絵の何が問題かを延々と説明された。クラスのみんなが見てる前で」

「酷い話だ」

「それから、絵を描くのが怖くなって、そうしたらなんにも、楽しいと思えるものがなくなって……でもね、昨日連れて行ってくれた絵画教室で久しぶり描いたら、やっぱり楽しいって思ったの」

「また描けばいい。自由に」

「うん。
先生、ありがとう。
私、世界は広いって分かった。だから、もう大丈夫。授業中はきっと、また嫌なことあるけど、でも、それが全部じゃないって、分かったから」

「それを聞きたかった」

「え?」

「相澤が自分で、そう感じて、そうなんだって思って欲しかったんだよ、俺は」

「だから、一緒に街に……」

「ああ。
それに、相澤が屋上に上った気持ちも、俺には少し分かる。
俺も学生の頃、死のうと思ったことがあるから」

「え? 先生が……?」

「そうだよ。
そのときの俺を救ってくれたのは、教師ではなかったけど」

「誰だったの?」

「その話は、また今度な」

「ええ~、気になるよ」

「楽しみは先延ばしにすると幸福度が上がる。それにもう、帰る時間だぞ」

「絶対聞かせてね、今度」

「ああ」

「良かった……あ、そうだ」

「ん?」

「一つ、お願いがあるんですけど」

翌週から、笠原先生からも話してもらって、私は本屋さん、実践堂でバイトすることになった。店員の特権で、新しく出た本を読ませてもらったり、少し安い値段で買わせてもらったりして、お客さんにも、自分が読んだ感想や使ってみた体験を話した。
バイト代を使って、絵画教室にも申し込んで、絵を再開した。

それから、私の日常は変わっていった。
両親は相変わらずだったけど、私の態度が変わったことで、学校でのクラスメートの態度も変わり、ときには傷つくこともあったけど、負けなくなって、少しだけど友達もできた。学校だけじゃなく、絵画教室に通う人との繋がりもできた。

笠原先生とは、その後も時間があれば一緒に出かけて、いろいろな体験をした。高3になると、私が体験したことを、先生に共有する機会もあった。

「先生」

私は思い出から戻って、先生に目を移した。

「来月から社会人って思うと、緊張もあるよ。きっといろいろある。でも……」

「世界は一つじゃない」

「うん!
先生、絶対また、お話しようね。あと、一緒に体験も」

「ああ。先生も負けてられないな」

先生が笑って、私も笑った。

学校でも、会社でも、その中にいると、そこだけが世界のすべてに思えてしまう。
でもそこは、その場所は、たくさんある世界の一つでしかない。
そこでうまくいかないから自分はダメなんて、馬鹿げてる。

今は、そう思える。

一つの世界から、世界の一つに。

空に浮いてる、雲のように。

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