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夫がダイエット"しない"理由(わけ)

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私は、ごく普通の家庭をもつ女。
菊永海咲(きくなが みさき)、32歳。

夫の菊永翔吾(きくなが しょうご)と、3歳になる息子の壮介(そうすけ)と三人で暮らしている。夫は私より年上だが、それでもまだ36歳。共働きで、都心に家は持たず、子供が大きくなったら地方で二人で住める家に住もうという考え方なので、その点に関しては気楽ではある。

でも私は今、胃のあたりに重量級の重りを落とされたような気持ちになっている。理由は、洗い物をしているシンク越しに見える、夫の後ろ姿。そしてシンクの横に置かれた、A4サイズの青っぽい封筒。

リビングのソファにもたれて、ビールとつまみを口にしながら動画を見ている夫は、一週間前に健康診断を受けた。その結果が今日届いて、夫はざっと確認して、少し渋い顔をした後、封筒を持ったままどこかに行こうとした。私は「見せて」と、できるだけ穏やかに言って、「見ても別に楽しいもんでもないぞ」と、不満そうな夫から受け取り、中身を見たのが一時間前。

生活習慣改善要。

健康診断の結果は、一言でいえばそういうことだった。

いわゆる生活習慣病のリスクがあるから、食生活の改善と運動習慣を取り入れること。より具体的には、飲酒を控え、野菜中心の食事にして、ウォーキングなどの運動を習慣化する。

もちろん、必要だからとすぐにできるものではないことは、私にも分かる。私自身、20代前半の頃、肥満に悩んだ。肥満を解消するのも苦労した。だからこそ、家族の食事は必ず野菜を取り入れている。夫もそれを、食べてはいる。問題は、夕食の後だ。

夫は以前から、揚げ物やジャンクフードが好きだったが、今はそこに拍車がかかっている。リビングのソファにもたれて動画を見ている夫の前には、三本目のビールを注いだグラスと、つまみとして買ってきたらしい、鶏の唐揚げ、そしてポテトチップスの大袋。

「ねえ、ちょっといい?」

私がズカズカと近づいていくと、夫は振り返らずに「何?」と言った。

「これの結果、見たんでしょ?」

青い封筒を見せると、夫はチラリと見て、動画に視線を戻した。

「見たよ」

「なのにこれ?」

テーブルを指差す。

「言いたいことは分かる。でも、これは結果を見る前に買ってきたものだ。捨てるわけにもいかないだろ」

「捨てろとは言わないけど、会社に持っていって誰かにあげるとか、今日は控えるとか、なんかできるんじゃない?」

「昨日までしてたことをいきなり変えるのは無理だ」

「変えようともしてないじゃない」

「なんだよ、昨日まで黙ってみてたくせに」

「分かってる? 生活習慣病のリスクがあるって言われてるのよ? 壮介はまだ3歳。私一人であなた医療費まで賄えない」

「大げさだな。すぐに病気になるわけじゃないんだ。徐々に変えていけばいいだろ」

それから、たぶん10分ほど、言葉のぶつけ合いが続いて、声は大きくなり、壮介が起きてきてしまったことで、会話は強制終了となったが、もちろん私は、納得したわけではなかった。
話しをしているときの夫は、いつもより疲れて見えたが、疲れているのは私も同じ。その後は会話もないまま、夫は先に寝室に行き、私は僅かな静寂に浸ったあと、湯に浸かって、ようやく落ち着いた。

風呂から上がると、体重計が目に入った。
そういえば、夫は毎日、体重計に乗っている。いや、毎日じゃないかもしれないが、頻繁に乗っていることは間違いない。いつから? 健康診断より前からであることは間違いないが、思い出せる限り、体重計から降りた後の顔は、明るくはない。夫は、健康診断の結果を見るまでもなく、自分でも問題として認識している。

「……」

何か理由があるのかも、と思ったが、寝室に入って背中を向けて寝ている夫を見ると、先程のことが思い出されて、私は背中を向けて、目を閉じた。

-2-

体重計のことを聞くべきかもしれない……頭の片隅にはそれがあったが、子供の送迎に自分の仕事、家事とこなしているうちに、疑問は隅に追いやられ、夜になると、躊躇いなくビールを飲む夫に苛立った。自分の状況、それがもたらす家族への影響、分かっているはずなのに、変えようとしない。

「ねえ、何にも変わってないけど、自分の状況忘れちゃった?」

あれから一週間経っても、体を動かすこと一つしない夫に、私のイライラは限界に達していた。

「買ってきちゃったからしょうがない。今食べてるそれも? しょうがないで済ませるの?」

「疲れてるんだよ。疲れると、ジャンクなものを食べたくなるだろ?」

「私だって疲れてるわよ」

「そうか? 君の仕事は楽でいい」

「分かったようなこと……」

「俺の仕事に比べれば楽だろ? 人間関係で悩むこともなければ、強いプレッシャーを感じることもない。何かあれば上司に投げればいい。楽じゃないか」

「あなたに何が分かるのよ!」

「じゃあ君に俺の仕事の何が分かるんだ!!」

いったいなんの話をしていたのか。
湯に浸かっていると、そんな考えが浮かんできた。
喧嘩なんて望んでいない。
壮介と私、そして自分自身のために、健康でいてほしいだけ。
なのに……

-3-

「海咲、最近なんか、荒れてる?」

職場のデスクで頬杖をついていると、同僚の田島優里(たじま ゆり)に声をかけられて、私は思わず、気持ちを吐露した。

「今日、一緒にランチ行こうか。最近時間ずれちゃって、行けてなかったし」

「あ、うん」

昼になるまで、頭の片隅に夫とのやり取りを浮かべながら仕事をした。頭の中でも喧嘩になったが、想像では打ち負かすことはできて、夫は反省し……というところまで浮かんだものの、習慣が改善されるところは想像できなかった。

「海咲のとこは、仕事のことも話すんだね」

ランチのカレーを食べながら、優里は感心したように頷いた。

「そんなに話さないよ。たまたま話に出ただけで」

「うちはそれもないよ。あえて話さないようにしてるっていうか。なんかね、前に話してたとき、お互いの仕事を比べちゃって、どっちが大変で云々って、家事の分担が~とか、ちょっと面倒なことになったの。だから仕事の話はせずに、家事は空いてるほうがやるってルールだけ決めたんだよね」

優里の話を聞いていて、私は一つ、思い出した。
以前は、夫とよく、お互いの仕事について話していた。どちらが大変とか、そういうことではなく、状況を共有して、溜め込まないようにと。でも子供ができてから、仕事の話はしなくなった。

「もしかしたら」

優里が言った。

「旦那さんが言った、仕事が楽って、仕事内容のことじゃなくて、私と海咲みたいな、気軽にいろんなこと話せる人間関係があることなのかも?」

「え?」

「だって、友達以外で、まあ私と海咲はもう友達でもあるけど、そうじゃなくても、他の同僚とも、わりといろいろ話すでしょ? 仕事のことで悩んでも、すぐに相談できるし、江南課長も職場の環境作りに熱心だし。すごく給料がいいとか、オフィスが海外の大企業みたいに洒落てる、とかはないけど、いい会社だと思う」

優里の言う通りだった。
以前、仕事の話をしていた頃、そんな職場だということも話したことがある。もしかしたら夫は、今、仕事の人間関係に悩んでいて、私の状況が羨ましい……本当は話をしたいけど、子供のこともあるから話す機会がない、だから拗ねてる? だとしたらちょっとかわいいけど、でも……

「仕事のこと、聞いてみたら?」

優里が言った。

「何か理由があるかもしれないよ。悪い習慣って分かっててもやめられない理由。体重計のこともあるし」

「……そうだね、そうするのがいいのかも」

「話すときは」

「……?」

「ダイエットのことは、いったん脇に置いてね」

「え? でも……」

「ダイエットできてないことを話の中心にもってきたら、また言い合いになっちゃうよ。そうじゃなくて、できない原因を知ることが先。話すんじゃなくて、聞くの」

「やらないじゃなくて、できない原因……」

「そう」

「分かった。今日の夜、話してみる。
ありがとう、優里」

できるのにやらない。
私はずっと、そう思い込んでいた。やる気があるなら、何かしら行動に変化が見えるはず。それも間違いではないと思うが、そんな簡単に行動を変えられるなら、毎年新しいダイエット本が発売されたりしない。

仕事を終え、子供を迎えに行き、帰ってきて食事の準備をして、子供をお風呂に入れる。目をつぶってもできる"いつも"をこなしていると、夫が帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま」

手には、近所のスーパーのビニール袋。ビールらしいものも見える。
私はため息を抑えて、夫の様子を観察した。
私に背中を向けるようにして、冷蔵庫にビールを入れ、惣菜らしいものをリビングのテーブルに置く。今日の夕飯のことについて聞いてきて、それからお風呂へ。

いつもと違うところはない。
お風呂から出ると、体重計に乗って、暗い顔。そこも同じ。

食事が終わって、子供を寝かしつけて戻ってくると、いつもの光景が飛び込んできた。
ビール、揚げ物、ジャンクフード、そして頭を使わない動画。

どうして……
口から飛び出しそうになった、ここ一週間ほどの反応ワードを飲み込んで、私は冷蔵庫まで歩いた。ビールとグラスを取って、深呼吸しながら、夫の隣に座る。

「なんだ? どうした?」

予想外だったのだろう、夫は一瞬、距離を置くように腰を動かした。顔には焦りが浮かんでいる。また何か言われる……そう思っている。

「たまにはいいでしょ?」

私は、グラスにゆっくりとビールを注いで、一口飲んでから、夫の箸を使って唐揚げを一つ、口に運んだ。

「あ、おいしい……」

「いったいどうした? いや、別にダメってわけじゃないんだ。俺にそんなこという資格はないだろうし……ただその……」

「そんなに警戒しなくても平気よ」

私は、できるだけ穏やかに、ゆっくりと言った。

「気の所為かもしれないけど、会社で何かあった?」

「え?」

「ふと思ったの。最近仕事のこと話さなくなったなぁって。前はいろいろ話してたのに。壮介がいるから、話す時間がないっていうのはあると思うけど、最近はどうなのかなって」

「……相変わらずだよ」

夫は、テレビ画面のほうに顔を向けた。
視線は動画に向いているが、何か別のものを見ている、そんな気がした。

「壮介は、ぐっすり寝てるよ。あなたと一緒で寝付きがいいから、あの子」

「……」

夫の顔は曇っている。
話して、と言いかけたが、代わりに一口、ビールを飲んだ。

「実は、かなりしんどいことになってる」

夫はポツリと言った。

「どんなふうになってるの?」

「一年前に、昇格しただろ? 課長代理っていう、課長になるには必ず通らないといけないステップだ」

「うん。お祝いもしたもんね」

「上に行くには、必ず通らないといけない。それは分かってた。課長代理の仕事も見てきたし。でも実際にやるのと外から見てるのとでは、大変さが違う。けどまあ、そこも分かってたことだ。今までも、そういうことはあったし」

「うん」

「問題は、俺の上司が変わったことだ、半年前に」

「そうだったんだ……どんな人なの?」

「営業部から移ってきた人で、頭はいい。いわゆる、頭が切れるってやつだよ。でも、下に対する要求は大きいし、厳しい。前の上司とは一緒に問題に取り組めたけど、今はそうはいかない。俺に対するプレッシャーもそうだけど、部下たちも常に緊張して、ミスしたらって怯えてる感じでさ。

課長はそういう緊張感がいいと思ってるから、改善する気はない。そのうち問題が起こるって進言もしたけど、お得意の論理的な言い回しで否定してきて、そもそも話をまともに聞く気すらない。俺だって、ただの感情論で言ってるわけじゃない。いい意味での緩さ、やることはやるけど、なんでも話せるような、そういう環境にしたほうがいいって話なのに」

夫はそこまで言うと、一度言葉を止めて、グラスに半分ほど残っていたビールを、一気に呷った。

「でも、泣き言を言ってるわけにもいかない。上司と部下の間にいる俺が、なんとかしなきゃって思ってるけど、日々のやることも多し、うちの会社は相変わらず会議が多い。ったく、なんであんなに会議ばかりやるのか……」

「分かる。うちは徐々に減らすようになってるけど、友達の話とか聞くと、一日中会議とかあるみたい。変だよね」

「君に聞いて欲しいって気持ちもあったけど、壮介もいるし、君には、壮介の送り迎えや、家のこともほとんどやってもらってるから、話を切り出しづらかった。俺は自分の仕事しかしてないのに、自分の時間もほとんどない君に、俺の愚痴まで聞いてくれっていうのは、なんか違うって、思ってさ……」

「それで、ついお酒とか、ジャンクフードみたいなものに手が伸びちゃったの?」

聞くと、夫は微かに頷いた。

「体に悪いのは分かってる。毎日体重計乗って、自分を戒めようと思うんだ。でも会社から帰ってくるとき、どうしても誘惑に負ける」

「なんとかして発散しないと……それが理由だったんだね」

夫は、頷く代わりに、俯いた。
そうだ、私も子供のことを理由に、「今は無理」と、夫が話しかけてきても拒絶したことがある。いつなら話せるとも言わずに、ただ「無理」と。夫も、寂しかったし、苦しかった。でも私に文句を言わず、子供にもきつく当たらず、それどころか、子供が遊んでほしいとくっつけば、仕事の後でも、酔っていても、嫌がらずに遊びに付き合ってる。

外で飲んで帰ってきて、私の追求や子供の要求から逃れることだってできた。外に女を作って、その人に話を聞いてもらうってことも、ありえた。でも夫は、それをしなかった。苦しくても、酒とつまみで発散して、家族のためにがんばってくれてたんだ……

そして、私は思い出した。
結婚前からいつでも、私を気遣って、子供ができたときも、身重の私に無理をさせまいと、率先して家のことをやってくれた。なのに、忘れていた。
彼の優しさ、本当はどんな人か。
きっと、ちゃんと話をしていれば、お互いに気づけたこと……

「大丈夫よ」

私は、俯く夫の手を、そっと握った。

「私がついてるでしょ?」

「海咲……」

「壮介に聞かせるような話じゃないけど、私はあなたの妻。お互い忙しくても、少しの時間でも話はできるはずよ。私には、あなたの仕事の大変さは分からないけど……」

「こないだは悪かった、君の仕事を否定してるわけじゃ……」

「分かってる。あなたはそんな人じゃない」

「……」

「あなたの仕事の大変さは分からないけど、もしかしたら、何も知らない私の視点が、あなたの状況を良くするために役立つかもしれない。だから、時間を作って話をしない? 壮介が寝たあとに」

「ありがとう、海咲……」

夫の手が震えている。
上げた顔には、うっすら光るものが見える。

「明日からでいい。壮介が寝たあと、少しだけ時間もらえるか? もちろん、疲れてたり、翌日早かったりしたら、そのときはいいから」

「もちろんよ。でも」

「ん?」

「今はいいの?」

「うん、今は……」

夫は私の背中に手を回した。

「君の優しさに寄りかかりたい。
ダメかな?」

「ダメなわけない。
……嬉しい」

私も、夫の背中に手を回した。
体つきは、自分の記憶と変わっていたけど、溜め込んだものは、二人で解消していけばいい。それぞれではなく、二人で。

翌日から、どれぐらいと時間を決めて、夫と話をするようになった。
時間を決めたのは、お互い、仕事のことを家で延々話すのは、あまり気持ちのいいものじゃないと思ったから。夫も同意して、今から何分と決めた時間で話すようにした。そのせいか、夫はビールとつまみの頻度が減った。ときには食べることもあるし、私も付き合うこともある。でももう、習慣ではなくなった。

「歩きながら話すのもいいかも」

あの日から二週間。
金曜の夜、話を終えて軽く二人で飲んでいると、夫は唐突に言った。

「ん? どういうこと?」

「夜か朝、ウォーキングとかどうかなと思ったんだ。休みの朝なら壮介も連れていけるし。夜なら、寝た後に二人で。どうかな? 壮介を置いていくのが心配なら、Webカメラを設置するのもいいし」

「うん、いいかもね。
じゃあ……明日、壮介も連れて、スニーカーとかウェアとか、見に行ってみる?」

「うん、そうだな、そうしよう」

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