80年代バブル期の音楽業界に花を添えたガールズROCKバンドの先駆者たち
こんにちは、Hideです🎵
バブル絶頂期の80年代に、それまでにない女性だけのロックバンドが登場しました。
まだ昭和だった頃、ROCKバンドを女性だけで組み演奏するなんて、とても珍しい時代でした。
世の中が80年代に入り、女性の社会進出も顕著に見られてきた時期でした。
音楽業界も同様、80〜90年代に起きた空前のバンドブームが起こり、女性だけでバンドを組んでメジャーデビューするバンドも出てきたのです。
今回はそんな昭和後期80年代に鮮烈にデビューし、ヒットを飛ばし歴史に名を刻んだレディースロックバンドを紹介したいと思います。
時代は昭和から平成へ、音楽業界も主となる媒体がレコードからCDへと変革していきました。
バブル期だった好景気にも乗り、鮮やかに活動していた美しさとワイルドさを兼ね備えたセンス溢れるバンドでした。
では、昭和後期80年代にタイムスリップしてお届けしていきます。
PRINCESS PRINCESS 活動期間:1984年〜1996年 2012年〜2016年
1983年、TDKレコード主催の「TDKレディースバンドオーディション」から各パート毎に勝ち上がった5人が、合宿生活を経て結成し、当時のバンド名”赤坂小町”として84年3月に「放課後授業」でメジャーデビュー。
バンド結成の際にメンバー内でパート(担当楽器)の変更をさせられ、メンバー各自その後まで続く担当ポジションとなる。
当時は事務所レコード会社も営業面を考慮し、若い女性グループということで、バンドという形式はとるが実際は、アイドルの様にプロモーションされた。
プリプリもそんな大人の事情に巻き込まれた形でのデビューだった。
この時代の流れには素人の彼女たちが背けることはなかった。
デビューから1年後の85年、事務所が与えるアイドル的な仕事と音楽性に違和感を覚えた彼女たちは、事務所を移籍しバンド名も”JULIAN MAMA”へ改名。
なおこのバンド名でのレコードのリリースはなかった。
そこからまた1年後の86年に”PRINCESS PRINCESS”にバンド名を再度変更し、同年5月にCBSソニーからミニアルバム「Kissで犯罪(クライム)」で再デビューし、現在のスタイルとなる。
「Kissで犯罪」のプロモーションビデオを事務所関係者が視聴したのがきっかけで、紆余曲折はあったものの、当時のマネージャーの説得と後押しもありシンコーミュージックと移籍して契約に至る。
87年5月、事務所移籍後初シングル「恋はバカンス」がリリースされるが、作詞はメンバーのギターの中山だが、作曲は作家の鈴木サブローが行い、メンバー以外の楽曲作成にかなり抵抗があり、この曲以後はメンバー自身が作詞作曲してリリースすることにこだわり続けた。
83年にオーディションでメンバーが出会い最初のデビュー84年から3年を経てやっとバンドとしてメンバーが望む形を手に入れた彼女達は、その後躍進を続けていくことになる。
*1989年4月にリリースされ、日本初のCDでのミリオンセールスを記録する
オリコン第1位を獲得 初のヒットチャートTOP10入りを成し遂げた曲
このような経緯を見ていると、昭和の時代で”レディースバンドのオーディション”とはうたいつつも、結局は古いおじさん達の考えから、若くて可愛らしい女の子は男性からウケるるアイドル路線を敷かれて、気の毒だったなぁ〜と感じてしまう。
そんな状況の中メンバーチェンジも無く、自分たちの思い描いた形を作り上げたことは凄いことですね。
音楽的な才能はあったにしろ、音楽業界も知らない若い女性達が、男性社会に翻弄されながら、自分たちの力で勝ち取ったポジションを得て成功したのだから〜
才能もさることながら、その諦めない精神には感服するし、見習わなきゃなぁ〜と真面目に感じてしまいます。
自分もアマチュアバンドをやっていましたが、それぞれに違う音楽性を持つメンバーで長い期間を同じメンバーでやっていくって大変な事なのですよ。
プリプリの場合って他のオーディションからデビューしたバンドと違う点は、学生等アマチュア時代から一緒に組んできたバンドでは無く、各パート毎に選ばれたメンバー達がメジャーデビューの為、バンドとして一緒にやっていくことになったことで、これは非常に珍しいケースですね。
*大ヒット曲「ダイアモンド」のカップリング曲であったがファンから人気があり、リリースから35年を経た現在もカラオケで歌い継がれている名曲
逆に最初から各メンバーがプロとしてミュージシャンをやって行こうという強い意志があったからこそ成せた技かもしれませんね。
話はそれましたが、路線変更の為に、自らベンド名を改名し、事務所の移籍も行い、87年の再々デビューまでこぎつけ、そこからは水を得た魚のようにステージを駆け巡った5人の女性達は、正に80年代の強い女性の社会進出を音楽という舞台で、古い男性社会の概念を打ち破って見せたのだ。
音楽的な部分ではなく、本物のROCKな生き様を見せてくれたのも、多くのファンを獲得した要因だと思う。
夢を諦めないことの大切さも身を持って示してくれたバンドでもあり、昭和を代表する日本のレディースロックバンドだ。
キャッチーで且つポップでハードなフィーリングを併せ持つ、聴きやすくノリの良いバンドは、当時はロック好きで無くても彼女達の音楽を好んで聴き、カラオケで歌った女子達も多かったと思う。
*昭和最終年の63年(1988年)にリリースされたプリプリのライブの定番曲 会場のオーディエンスも盛り上げっていますね ボーカルの奥居香さんも元気でムチムチしていますね笑 私も大好きなロックンロールナンバーです🎵
「M」は世代を超えて未だに歌い継がれている名曲でもある。
他に「ダイアモンド」(CDでの日本初の1位に輝いた曲)や「19 GROWING UP -ode to my buddy-」、資生堂のCMソング「GO AWAY BOY」や「世界で一番熱い夏」など、数多くのヒット曲を世に送り出し、多くのファンの記憶に残っているガールズバンドだ。
*セスナ機の効果音と広がるようなシンセサイザーサウンドが、夏を感じさせてくれます これも夏の定番曲です 奥居さんのスカート姿は貴重です
メンバーは以下の5人編成
SHOW-YA 活動期間:1985年〜1998年 2005年〜
80年代のバンドブームの中、本格的な女性だけのハードロックバンドの先駆け的存在。
前述のプリプリとほぼ同時期に活動していたが、年齢的にはSHOW-YAの方がプリプリより若干お姉さんだが、メジャーデビューはプリプリよりちょっとだけ遅かった。
Vo.寺田とKey.中村の所属したメディーサが母体となりのちにバンド名SHOW-YAになり、1982年ヤマハ主催のバンドコンテストでレディース部門で最優秀グランプリに輝く。
その後、メンバーの再編成を経て1985年8月に「素敵にダンシング(Coke Is It)」でメジャーデビュー。
当時、女性だけのロックバンドは珍しく、プリプリと同様にデビュー当時は、ミニスカートを着せられたりして、アイドル路線で売り出された。
デビュー曲はコカコーラとのタイアップとなりヘアスタイリストやメイクも世界で活躍する著名人が行い、衣装デザインはコシノジュンコが手掛け大きなプロジェクトが組まれていた。
1980年代後半はハードロック路線に戻り、自分たちの音楽を追求していたが、セールスが伸び悩んでいたが、これまで作詞を担当していたボーカルの寺田恵子が作詞家の安藤芳彦に作詞を依頼し、1989年制作の7枚目のアルバム「Outerlimits」が60万枚のセールスを記録し日の目を浴びることになった。
*かなり激しいノリとハードなサウンドですね 意外に野太い寺田恵子さんのボーカルがそいの中でも輝いています ドラムやギターなんか聴いていると”女性版X”と言った感じですね 寺田さんはYOSHIKIやToshiと同じ千葉県出身です 昭和の時代に女性がこの演奏は凄いです♪
それと同時期に発表した8枚目のシングル「限界LOVERS」が30万枚を売り、次作「私は嵐」のヒットも相まって、大衆にも認知を得たことからライブ本数やテレビ出演回数が激増した。
1987年から企画・主催を始めた女性ミュージシャンのみを集めた、現在ではメジャーなイベントになった”NAONのYAON”で女性アーティストの認知度を上げることに貢献した。
このイベントは、最初に企画主催したSHOW-YAの最大の功績だろう。
まだ昭和だった時代に、日本初の女性だけのハードロックバンドが、ビジュアルも音楽的にも、日本のオーディエンスから馴染みが薄く浸透するまでは時間を要したが、彼女らが拘った本格的ハードロックサウンドと寺田の妖艶でドーンと突き抜ける様な歌声がやがて人々を魅了していった。
*「私は嵐」はメロディアスで寺田さんのボーカルの魅力を感じさせてくれる曲だ 後半の五十嵐さんのライトハンド奏法も見せ場だ よく出来たプロモーションビデオに仕上がっている
高い演奏能力と寺田の広い音域と歌唱力があってこそ、このバンドが成功したと思う。
SHOW-YAのメンバーは私とほぼ同年代だが、変わらずパワフル且つワイルドな演奏と歌を聞かせてくれる。
日本のレディースハードロックというジャンルを開拓し広めていった活動は正にロックな生き様だ。
彼女達のおかげで、その後もヘビメタの女王と呼ばれる浜田麻里も受け入れられたと思う。
*SHOW-YAがX JAPANの”紅”をカバーしている テンポも速くかなりのハードさとテクニカルな演奏技術を要求される曲だが、Xの先輩ミュージシャンとして見事に演奏している ドラムとギターが凄すぎる 演奏終了後寺田さんが息を切らしているのが凄さを表している
勇気ある彼女達のロック魂には頭が下がる。
実は私もくまなくSHOW-YAを聴いた訳ではないが、一時期ギタリストとしてバンドをやっていた頃、「躁鬱なバレリーナ」というSHOW-YAの曲を弾いていて、簡単ではあるが初めてライトハンド奏法をしたことが思い出として蘇る。
日本ロック史上に女性の先駆者としてその名を刻んだバンドである。
あとがき
今回は昭和を代表する女性ロックバンドの先頭を切った二つのガールズバンドを紹介しましたが〜いかがだったでしょうか?
誰よりも最初に、それまでやらなかったことをするって大変な事なのだな〜って改めて感じさせられました。
私自身も、二つのバンドとも当時聴いたし認知していましたが、確かに本格的な女性だけのバンドって、それまでにはなかったですもんね〜
記事を書くのにネットで、色々情報を仕入れたわけですが、これまで知らなかった事を知ることになり、自分達のやりたい音楽をやる為に苦労した彼女らの熱意には正直驚きました。
プリプリとショーヤの2バンドとも、若干趣が違うロックだが、バンド編成が全く同じで共通点も多い。
年代としては少しばかりショーヤの方が上だが、そこまでの開きじゃない事や、デビュー当初は戦略的に女の子っぽい服を着せられたり、アイドル路線で売り出そうとされたという酷似する部分も多い。
昭和時代であったので、営業サイドの男性陣の思惑が窺えて、音楽業界の話ではありましたが、他の業界や社会でも同様の扱いを受けてきた女性は当時は多かったのではないでしょうか。
女性ロックの先駆者というよりも、80年代という昭和の終焉を迎える中、自立した女性が台頭してきた時期に、その中でそれまで男性社会だった日本文化の中での女性達の戦いが垣間見える。
音楽面だけでない捉え方として、やっぱりプリプリとショーヤの日本社会に与えた影響は大きいと今更ながら感じている。
昭和のまだ男尊女卑だった世の中で、成功していく過程で、彼女らが体験した中には、口に出したくないような出来事だってあったと思う。
現在NHK朝ドラの女性初の弁護士を描いたドラマを観ているが、新しい何かを切り拓くパイオニアだった彼女達には我々男性にはわからない苦労が沢山あるあったのだと思う。
しかしながら、私もこの二つのバンドのメンバーと同世代で、今まで生きてきて感じるが、いざとなったら男性よりも女性の方が強いという事。
プリプリもショーヤも成功してバンドを継続していく経緯はそれぞれではあったが、両バンドともほぼメンバーチェンジはしていない(ショーヤは一時期ボーカルが変更になるが後に寺田に戻る)
先ほども言ったが、これは自己主張が強いメンバーが在籍するロックバンドでは簡単な事ではない。
昭和の時代に女性の強さと逞しさをロックという武器でオーディエンスに見せてくれた彼女達に拍手を贈りたい。
この様子をリアルタイムで見て、同じ時代に生きれた事に感謝したい。
昭和生まれのロック好きなおじさんが感じた女性ロックバンドについてのお話でした。
長い文章になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。やっぱりROCKは最高!だぜ
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