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日本人よ、ものづくりにかえろう

ついこの間、日本の製造業、ものづくりの権威である、いや少なくとも僕個人としては野村総合研究所で自動車や自動車部品を中心として、重たく、複雑なものをつくる人や企業を対象とした戦略コンサルタントをルーツに持つ人間としては、入社以来、そして独立後も含めて、常にプロジェクトの内外で意識せざるを得ない東京大学の藤本先生にインタビューをする機会に恵まれた。

僕たちはクライアントワークの一貫としてそれを行っているので、当然ながらインタビューをさせていただく前に、こちらがなぜこの場を頂いているのかについての背景や趣旨の説明をするのが普通だ。しかし、先生は、3分ほど遅れてMMRC(東京大学ものづくり経営研究センター)の会議室に現れ、名刺交換を儀礼的に済ませ、席に座った瞬間にとめどなく話だし、気づいて見れば頂いた時間を大幅に超過する2時間、怒涛のように喋った。

鋭い目線だが、奥は優しさに溢れていると、最中に僕は感じた。

3分ほど会議室に入室するのが遅れたのは、欧米の経済誌に対してクレームを入れていたたとのことだった。誰もが知る非常に著名なペーパーだが、先生が怒っていたのは、2017年において日本の製造業が20年ほどの長きに渡って一部の検査工程を省略して製品を市場に出していたことを、日本の製造業のものづくりの実力がさも終わったかのように混同して報道していた姿勢についてだった。

最終的な検査工程で把握するのは、その製品に対して安全・品質上致命的な影響を及ぼす”外部不良”である。しかし、日本の製造業は外部不良の公差よりも遥かに厳しい公差をものづくりの過程において織り込んでいる。そこで出てくる”内部不良”品に対する基準を守って入れば”外部不良”は確率論からして出現することはほぼ無いと言い切れるレベルで設定されている。

一方で、”内部不良品”が出たらそれをすべてはじいてしまえば良いという考え方では、この20数年間で考えた時に、労働コストが圧倒的に安い新興国のものづくりに対抗することはできない。この厳しい基準をクリアするために、日本の製造業におけるものづくりの現場は知恵を絞り続けてきた。

話は変わる。

2017年、クライアントワークでドイツ、イタリアにてそこに住む消費者、生活者に対するグループインタビューを行う機会を頂いた。対象とする製品は日本のもので、自動車のような複雑な製品というよりは、化学に近い。しかし、化学系製品も自動車と同じく、すり合わせ製品であるという僕の理解と、質問の中に日本そのものの印象を聞くために自動車等、他の産業に関するものが含まれていたことを前提として話を進める。

ドイツの生活者はドイツ製品に誇りを持っていた、特にドイツの根底を支える自動車について。「日本の自動車は非常に優れているが、ドイツ車と比べればそれは違う」という意見が大半を占めた。その一方で、「日本車の経済性は素晴らしい。ドイツ車と比較しても壊れないし、長く使っても新車で買った時と同じパフォーマンスが持続する。ロングタームで考えれば非常にコストパフォーマンスが高い」という意見も同時に非常に多かった。

嗜好品についても聞いた。この点については、ドイツ製品は全く太刀打ちできない。存在感を増すのはフランスやスイスの製品であった。そして、ここでは日本製品とその総体としてのブランドには非常に大きな信頼感があった。一方で、日本の製品はマーケットでほとんど見かけることがないという意見も少なくなかった。

藤本先生は製造業の生産性を”現場力”と”本社力”の積で説明する。詳しくは先生の著書を参考にして頂きたいが、”現場力”は”人数”と”投入時間”の積を分母に、アウトプットする財の”個数”を分子とするいわゆるところの”モノの生産性”である。そして”本社力”は前述した”個数”を分母に、”付加価値”を分子に置く”付加価値生産性”である。”付加価値”は簡単にいえばその製品の市場価格のことだ。

ドイツの自動車、フランスのバッグやコスメなどの基本的な考え方は”本社力”によって”顧客自らに標準品を高い値段で買わせる”ことにある一方で、日本の製造業は、”顧客の複雑な要求に対して”現場力”を総動員して丁寧にこたえていく”ことにその真髄がある。生産性の拠り所が異なるということであり、日本の生産性の低さが”本社力”、すなわちホワイトカラーの生産性の低さに起因するシンプルな構造ということである。

ものづくりの工程において、対象とその変化の過程全てに真摯に向き合い、それを極めていくことそのものが日本に生まれ、生きてきた人間としての存在証明であり、その過程で日本人は自分が、そこに在る自分であることを認識する。

先生はそこまで仰っていなかったが、僕が考える日本人像はこのようなもので、先生も奥底にはこの考え方があると思うし、自分が知っている日本の製造業に深く携わった人と話すときにはこの部分で深い共感の海に潜る。

多能工の世界を究極まで突き詰めることができるのは、日本人とスイス人にしかできないと僕は考えている。ドイツ人にもフランス人にも、もちろんアメリカ人にも中国人にも東南アジア人にもできない。それは、他国から侵略をされにくい地政学的な特徴を持っていて、純粋な水資源を豊富に持ち、厳しくも美しい自然を持つ土地であることが必要となるからだ。

そういった土地に根付いた社会にはモノに対する信仰が生まれる。多様で流転するモノが上位概念となり、人はそこに従う。極論すればモノの命がヒトの命の上位概念になる。自然と水は流転する。そしてそれは美しくもあれば、時に人に対して牙をむく。人はその変わり続けるモノを畏怖し、尊敬し、受け入れる。だから、日本人は多様で変化するモノを受け入れる。そのために、人々は型をつくり、そこにはまらない人的な事象は排除する。

日本人が多能工を極め、かつ機械的な事柄だけでなく、化学的、素材的な部分までの知見を持ち、それを現場のものづくりに昇華することができるのはこのことが根底にある。だからこそ、日本人はITがモノの世界を意のままに操る世界をそのまま是として受け入れることができない。それは、ITが怖いのではなく、日本に生まれ、育った人として、モノに対する畏れを知っており、かつそれは日本人が日本人的な方法論で寄り添うことしかできないと”知っている”からだ。

昨今、シリコンバレーや深センに代表される中国におけるものづくりの日本に対する脅威論で溢れているが、非常に表面的な議論であると僕は思う。ドイツ人、中国人には日本人のようなものづくりは決してできない。それは良い悪いではなくて、地政的な特徴から来る、宗教観に基づく違いでしかない

だからこそ、日本人はもう少しものづくりの現場に向き合うべきだと思う。現場にこそ僕ら日本人のルーツが存在しており、そこで起こっていることこそが、自己確認の対象としての日本そのものであるからこそ

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