僕が易学にたどり着いた理由

誰も理解できないかもしれませんが、自分は小さいころから「統一理論」的なものを常に探して生きてきました。人間社会が考える以上に大きな、形而上というのかもしれませんが、俗世を統一するような概念、論理、仕組みが存在するはずだと常に思い、それを証明しようと生きてきました。
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そこで現時点で僕が行き着いた答えは易経、易学です。
2021年はそれを軸に心技体を揃えて活動をしていくつもりです。
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なぜ、そう思ったのかについて筆の赴くままに書いて行こうと思います。何回かに分かれるかもしれませんし、気が変わるかもしれませんが、お付き合いください。
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2020年の初め、疫病がこれだけ世界で蔓延すると誰も思っていなかった当時、年末から年明けにかけて僕は物理学と化学の本を読み直しました。
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ミクロレベルでは、確率論によってエネルギーの分布が決まり、それが物性を決めていくことや、当然の結果として全ての状態は混ざり合い、平衡状態に達すること、そして人間はそれを時間と定義していることを知りました。
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確率によって生じる物性がマクロレベルの現象になり、人間はそこから最大の効率で仕事を取り出そうとしていることも実感としてより身近になりました。
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一方で、結局全ては確率の問題であり、確率分布が全ての法則を支配している以上、大局に抗うことの無意味さを知り、敢えてそこに挑戦していく人間という存在の矛盾、無意味であるからこその悲哀、人間臭さを感じました。
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続けて春から夏くらいにかけて、人類史や行動遺伝学、能力とイノベーションに関する本を読みました。
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人間の能力は多種多様で、それを発動させることが「個」としての生存戦略であり、それを伸ばす環境は遺伝的・確率的なものと、(家族以外の)外部環境、すなわち広く・薄い関係性によって起こります。その固有の能力の発芽を「個」としては望ましいのではないかと考えました。
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認知革命でネアンデルタール人を駆逐したホモ・サピエンスの強みは組織力にある以上、ある能力を偏重し、規範化していく矛盾を抱えた存在であることも理解しました。また「個」の定義も、実は人間個体や、遺伝子単体ではなく、人間個体を越えた遺伝子セット(プール)として生存競争をしているという論があることも知りました。
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人間個体で何かを考えるということ自体、無理があることなのではないか、もっと大きな流れの中で私たちは存在しているのではないか?固体としてはっきりと周りに境界線があるのではなく、液体・流体のように曖昧なものとして溶け出したり、巻き込んだりするようなものなのではないかと思うようになりました。
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夏から秋にかけて、今度は思想・宗教・哲学書、心理学関連の本を読むことになります。その点について、易経・易学との接点についてはまた後ほど。


夏から秋にかけて、必然的なのかもしれませんが、自然な流れで今度は思想・宗教・哲学書、心理学関連の本を読むことになりました。

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心理学は実践的、実感的な印象を僕に与えてくれました。それは、人という個体の中で首から上と下とで矛盾することが往々にして起こるということです。
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首から上、脳・頭は認知や判断、処理を司っていて、感覚や思考の中枢です。一方で、首から下の身体は感「覚」ではなく感「触」を司る部分。脊髄反射などの現象も含めて、人類が原始的に持ち続けてきた本能や情動を司っていると単純化して理解することができました(本来は上と下が相互に関係している部分もありますが)。
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首から上は近現代社会、もっと言えば集団、組織、すなわち実体が仮想化されたものを象徴していて、首から下は原始社会、かつ個体を象徴している。集団と個が矛盾するように、近現代社会が原始社会からの発展、すなわち何らかの変異の結果であるように、頭と身体・情動とは時に矛盾します。
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そして人類が社会が存在する以前の数百万年の間動物の延長として存在していた以上、個体としてはその部分で「生きる」ことが基礎となっている以上、身体・情動に矛盾した頭・思考には苦痛を感じ、ダメージを蓄積していくことになります。
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結果として頭の機能を破壊して認知関連の病的症状を起こしたり、時には身体が情動の主体として反射的に死に向かわせることになるのだと理解しました(拒食や自殺)。
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思想・宗教・哲学書は僕に生きるということの本質が、この瞬間、その場所の点の積み重ねでしかなく、そういった意味で、過去や未来に囚われて悩んだり、不満を感じたり、不安に思ったりすることの無意味さを教えてくれました。
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この概念は物理学、中でも量子力学や素粒子の研究、また化学におけるエントロピー的な概念と抽象レベルで全く同じことでした。観察者の”場所(状態)”によって対象の存在が確定し、かつそれは確率に基づいて、その”瞬間”に決まるという不確定原理は、ブッダが説いていることと全く同じです。
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マクロとミクロは繋がっていて、それは人間個体ではどうしようもない大きな流れの中にあり、だからこそ人間個体はその瞬間、場所という点の中で生きるということに気づき、集中し、味わい尽くせば良いのだと。
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ここから僕は、奇しくも上述したことを学んで、感じてきたタイミングと同時に自分の身体に向き合ってきたことの意味を知りたくなり、身体と食についての実践、古典に向かうことになります。これが秋から冬にかけてです。
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更に続きます。


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続きです。
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2020年初に自然科学の本を、夏から秋にかけて思想・宗教・哲学書、心理学関連の本を読んできた僕は、秋から冬にかけて身体と食についての実践、古典に向かうことになります。
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僕は2017年末にロードバイクを購入し、当初は暇を見つけては外を走っていました。2018年に室内トレーニング環境(Zwiftとスマートトレーナー)を構築し、2018年の秋頃からはほぼ毎日トレーニングを続けてきました。バイクで外を走るのは爽快で純粋に楽しいこともありますが、室内トレーニングはメニューに応じて負荷をかけることができるため意図的に追い込む、という自分にとっては新しい体験を身につけることができました。
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有酸素運動で自分を追い込むのは苦しいです。しかし、その結果として心肺も筋肉もパワーアップします。苦しみの先に果実がある。40代でも身体能力が伸びていく結果を見ることは自分にとっては麻薬のようなもので、すっかりハマってしまいます。
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2020年の11月、ランニングを始めます。当初は3kmくらいだったのですが、すぐに5km, 10kmと距離を伸ばすことができるようになり、頻度もほぼ毎日という状態になりました。また、ロードは景色があまり変わらないことと、信号があることが難点だったため、トレイルランにも踏み込んでいきます。
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高尾山から始めたトレイルラン。山や森の中の不整地を走ると、都会とは異なる空気や足裏からの衝撃が新鮮です。そして、山や森の中で出会う人々は片手にスマホを持っていることもなく、通りすがりに挨拶を交わしたり、譲り合ったり、場合によっては助けたり、人間が昔から持っている暖かさみたいなものがそこには当たり前のようにありました。
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同時に読み始めたのが、Born To Runと秋山先生の本。この2冊には衝撃を受けました。人間は歳をとったら走れなくなるのではなく、走らないから歳をとるという前者。そして、人間は季節・土地のものを食べれば身体も心も健康であり、医者にかかる必要もないという後者。どちらの本も書き手が実践者であり、綴られる言葉には強力な説得力がありました。
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近現代の人類は色々なものを創り出して世の中を便利、快楽的なものに変えてきました。しかし、周囲を見渡せば、身体の不調や怪我、心の病に侵される人がたくさんいます。特に今年はコロナの影響もあり、SNSも含めて自分が繋がっている人の中でもぎっくり腰や転倒による怪我、うつ病などに苛まれた方が少なくありません。
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初春から自分が触れてきた莫大な書物。そこに綴られているのは同じことでした。それは、人生は今この瞬間にここにしか存在しない。そして起こることの全ては必然であり、目の前にある現実は自分が望んだものであり、かつ人生というのは個人がどうこうすることのできない大きな力に左右されている、ということ。
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だから、今ここ、この瞬間を最大限に味わい尽くすことそのものが幸せなんです。この本質、原理が分からないから未来に不安をいだき、過去に不満を持ち、幸せを感じることができないどころか、身体や心が壊れていきます。
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秋山先生の本で食養という言葉があることを知りました。そしてそれは日本に由来があることも知りました。いわゆる「マクロビオティック」の大本です。そしてこの考え方が実は陰陽五行の考え方、もっと言えば易学から来ていることも知りました。
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日本人に生まれ、こうやって考えることを生業としている自分にとって、今までの生き方とは全く正反対の「食養」や「易学」という概念に行き着くこと、これもまた必然であると感じています。易学を学ぶことによって、世の中の統一理論を完成させることができれば、それを社会に還元し、幸せな人を増やすことができるようになるのではないか。仮想に生きる今の人々を現実に戻すことができるのではないか。そう思っていますし、そうすることが自分の宿命であるとも感じています。
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2021年、僕は易学を学ぶことになります。
僕の長い旅路にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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#越境者 #越境思考


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