シャンタル・アケルマン映画祭
ベルギーの映画監督シャンタル・アケルマン(1950~2015)の特集があった。日本ではほとんど公開の機会が無かったそうなので、今回リマスター化に伴い初めて彼女の作品を見たのだが、高度な人間観察と精緻な画面構成が特徴の映画であった。5本の上映作品のうち「私、あなた、彼、彼女」、「ジャンヌ・ディールマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」、「アンナの出会い」、それと後期作品の「オルメイヤーの阿房宮」の4本を見た。まだ彼女の作品を見たことがないならば強くお勧めしたい映画である。
「私、あなた、彼、彼女」(1974年)は、24歳のアケルマン監督自身が演じる「私」をまなざす。
私/ジュリーは家具をあちこち移動し、身体が収まる場所を探す。部屋は固定ショットの複数のフレームに切り分けられ、全体像を知ることは無い。マットレスから1歩動くとフレームから外れる。ジュリーは終始無言だが、外部から聞こえる車の走行音と、外部から「私」を規定する「ト書き」が本人と思われるナレーションとしてフレームに重ねられる。ジュリーは部屋の隅にうずくまる。夜になり、そして朝になる。
ジュリーは「あなた」に手紙を書く。手紙を書き直す。綴られた大量の便箋を床に並べ、床に画鋲でとめる。マットレスに腰掛たまま、シリアルでも食べるように砂糖の紙袋にスプーンを入れ、繰り返し口に運ぶ。砂糖をこぼす。こぼした砂糖を袋に戻す。床に体を横たえる。
ひと月後、空腹に耐えられ無くなったジュリーは部屋を出ることにする。
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「ジャンヌ・ディールマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975年)は、夫を亡くした主婦ジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)の、よどみなく流れる日常がずれ始め、ついには崩壊するまでの3日間を描いた映画だ。
鍋に水を満たし、マッチでコンロの火をつける。いつもの日常だ。玄関で男のマフラーとコートを預かり2人で寝室に入る。
暗くなった玄関の灯を点け−男にコートを手渡し−紙幣を受け取り−ドアを閉め−灯を消す。居間の灯を点け−テーブルの上の壺に紙幣を投げ入れ−蓋を閉じ−灯を消す。寝室の灯を点け−窓を開け空気を入れ−ベットマット直し−灯を消す。キッチンの灯を点け−茹で上がったじゃがいもの鍋の湯を切る。−灯を消す。浴室の灯を点け−シャワーで身体を洗い−タオルで身体を拭き−灯を消す。再び寝室の灯を点け−窓を閉め−灯を消す…。
ジャンヌは、部屋から部屋へと目まぐるしく、しかしよどみなく行き来する。固定カメラのカットとカットの間を、一連のアクションを滞ることなく繰り返す。彼女のルーチンは、息子が寝付く時間まで止まることなく継続する。
翌朝、まだ暗いキッチンの灯を点け−ヤカンを火にかけ−棚からコーヒーを出し−豆を挽き−コーヒーを淹れ−魔法瓶に移し−そしてキッチンの灯を消す。息子を起こす。朝食を用意する。学校に送り出す。息子のパジャマをたたむ。ソファーベッドをしまう。よどみないジャンヌの日常は既に狂気に近い。買い物に行く。カフェでコーヒーも飲む。だがジャンヌの平凡な(?)一日は少しずつずれ始めるのだ。
主婦の日常は、固定カットで行為の単位ごとに切り替えられ、行為の外部から物音が常時鳴り響く。ジャンヌの孤独や閉塞感はまた「私、あなた、彼、彼女」の「私」とは違った、繰り返し無名化される自己のイメージからの逸脱と、その破壊に至る無為の欲望が、映画内に充ち満ちている。かつてのジャンヌと夫との間にあったであろう父権的な支配関係が、息子によって再生産され置き換わることに、彼女は気づいてしまうのだ。
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「アンナの出会い」(1978年)の主人公のアンナ(オーロール・クレマン)は、映画のプロモーションのために「旅」をするアケルマン監督自身のを描いた映画にも見える。彼女自身のアイデンティティやセクシュアリティーを問うた「私、あなた、彼、彼女」の延長線上にある映画だとも言えるだろう。長回しで対称性の強い固定ショットが冴えわたる。
教師を名乗るドイツ人の男、叔母、ブリュッセルに住む母親、車でパリ駅に迎えに来た恋人。これらの登場人物とアンナとの関係が、ヨーロッパの都市をつなぐ鉄道の旅/駅を起点に展開される。構造で見れば、旅先の一夜の関係を拒んだ男(と彼の家族)とパリの男の線上に、そしてドイツに住む叔母(彼女の息子とアンナは付き合っているようだ)と母親の線上に、あるいは夜行列車の男とすれ違う女友達との線上の中央に位置しながら、その物理的/精神的な距離に於いてどこか不安定で寄る辺ない自分という存在について、問うた映画なのだ。ようやく辿り着いた夜更けのホテル。放送終了後のテレビ画面。バスローブ姿のアンナが歌う…。
かくして自宅のベッドの上で、留守番電話のメッセージを次々と聞いて涙するのだ。
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これら3つの映画が、1970年代に公開されたアケルマン監督の初期作品であったのに対し、「オルメイヤーの阿房宮」(2011年製作)は、2015年に亡くなるアケルマン監督晩年の作品だ。ジョゼフ・コンラッドの小説の翻案であるこの映画は、植民地主義と家父長制から読み替える支配関係を、アケルマン監督特有の美意識で編み直す傑作だ。
マレーシアの奥地の河畔に暮らすオルメイヤーは、現地の女性との間に生まれた娘ニナを溺愛する。アケルマン監督の固定カメラはここでもまた外部空間を切り離し、より抽象化された人物描写によって、壊れゆく白人男性の狂気を捉えていく。既に自分自身すら切り捨てられているヨーロッパ世界にすがるオルメイヤーの狂気は、幻想の阿房宮の隙間から差し込まれる、散りばめられた宝石のような光線によって静かに彩られる。自由を求め、密林の中を横へ横へと移動するニナを捉えるショットがまた秀逸なのだが、とはいえ、彼女の逃避先は結果的にさらなる収奪への道筋であることも、すでに映画の冒頭で語っているのだ。